島(左近)清興とはどんな人物?何をした人なのかエピソードや性格・人柄を解説!

戦国時代、数々の武将が名を馳せましたが、中でも「島清興」は特別な存在です。通称「島左近」として知られるこの武将は、石田三成のもとで活躍し、その武勇により多くの戦で名を挙げました。

彼の人生は謎に包まれ、その出自や生涯の多くが今なお研究の対象となっています。島清興の戦いぶり、特に関ヶ原の戦いでの活躍は、歴史に深い足跡を残しました。

この記事では、彼の生涯や戦場でのエピソード、影響力について詳しく掘り下げていきます。戦国時代を彩る一人の武将の足跡をたどり、その魅力に迫りましょう。

目次

島(左近)清興の出身地や生まれ年は?

島清興は戦国時代に活躍した武将で、一般に島左近の名で知られています。彼の出身は大和国(現在の奈良県)であるとされ、その生まれは1540年頃と推定されています。

島家は当時の社会では名の知れた家柄で、清興もその一員として育ちました。彼の父親については詳しい記録が残っていないため、謎に包まれています。

人柄に関しては、勇敢でありながらも、知略に長けたことが伝えられています。戦場だけでなく、政治の場でもその才能を発揮しました。

後世の評価は高く、特に関ヶ原の戦いでの活躍は今も語り継がれています。彼の武勇に関する逸話は、多くの人々に勇気を与えてきました。

また、忠義心が強く、主君に対する忠誠心は篤いものがありました。島清興は、戦国時代を生きた多くの武将の中でも特に印象的な存在として記憶されています。

その人生は短かったかもしれませんが、彼の名前は今後も長く語り継がれるでしょう。

島(左近)清興の人生とは?やったことや人となり

筒井家臣の時代から豊臣家臣へ

清興が活躍した大和国は、戦国時代において重要な地の一つでした。ここで彼は、幼い頃から武士としての修行に励みました。

清興の父や一族についての記録は少ないですが、彼が武士としての技術や知識を磨いたことは明らかです。若い頃からの彼の活躍は、次第に名声を高めていきました。

1570年代、清興は筒井順慶に仕え始めます。筒井家は大和国の有力な武家で、順慶はその当主でした。

筒井順慶のもとで、清興は自らの武勇を発揮し、筒井家のために数々の戦いに臨みました。特に注目されるのは、彼が松倉重信(右近)と共に「筒井の右近左近」と呼ばれ、筒井家の両翼として頼りにされたことです。

しかし、順慶の死後、家を継いだ筒井定次との間にはいさかいが生じ、清興は筒井家を離れます。この時期については、彼がどのような思いで筒井家を去ったのか、具体的な記録は残っていません。ただ、新たな主を求める彼の旅は続きました。

その後、清興は豊臣秀吉の弟、豊臣秀長に仕えるようになります。秀長のもとで、彼は再びその武勇を示しましたが、秀長の死後は豊臣秀保に仕えます。

豊臣家での経験は、清興にとってさらなる成長の機会となりました。しかし、秀保の死と共に、彼は再び主を失います。

石田三成への士官から杭瀬川の戦いまで

秀保の死後、島清興は再び主を失っていました。その時、石田三成が彼に目をつけ、熱心に仕官を勧めました。

石田三成は、豊臣秀吉のもとで兵糧奉行などを務め、優れた政治力と策略で知られていました。三成は島清興の武勇と人柄を高く評価し、彼を自分の家臣として迎え入れることを強く望みました。

三成の熱心な勧誘により、島清興は遂に1595年頃に石田三成に仕官します。

三成は清興に対し、通常の家臣には考えられないほどの高待遇を与えました。4万石のうちの2万石を清興に与えたとも言われています。これは、三成が清興の能力をいかに高く評価していたかを示しています。仕官後、島清興は三成の信頼厚い家臣として活躍しました。

1598年、豊臣秀吉が亡くなると、政権は徳川家康と石田三成を中心とした豊臣家の家臣団との間での権力争いに突入します。

島清興はこの時、徳川家康の権力拡大を強く警戒し、三成に対して徳川家康を討つよう何度も提案しましたが、三成はこれを受け入れませんでした。この間、清興は三成の側で忠義を尽くし、豊臣家のために奔走しました。

1600年(慶長5年)9月14日、関ヶ原の戦いの前夜、清興は自ら500人の兵を率いて東軍の中村一栄隊を攻撃します。

彼はわずかな兵力を率い、敵軍を巧みに誘い込むことで、数で劣る自軍の不利を覆すことに成功しました。

島清興は敵に稲刈りをしているように見せかける挑発行為で、東軍を杭瀬川の向こう側へと誘導しました。そして、敵が川を渡ったところを待ち伏せていた西軍の主力が一斉に攻撃を仕掛けるという策略を用いました。

この策略は見事に成功し、東軍は大混乱に陥りました。島清興の部隊は、この戦いで東軍に大打撃を与え、西軍の士気を大いに高めることに成功します。この戦いでの活躍は、関ヶ原の戦いの前夜に西軍が有利な立場を築く上で、非常に重要な役割を果たしました。

この「杭瀬川の戦い」は関ヶ原の戦いの前哨戦として、西軍の士気を高める重要な役割を果たしました。

島(左近)清興の最期|何歳で死んだ?

関ヶ原の戦いにおいて、序盤、西軍は優勢に立ちます。ところが、小早川秀秋の裏切りにより形勢が逆転。

島清興は石田三成を守るため、自らが率いる部隊を引き連れ、前線に立ち、敵陣に突撃しまます。彼は勇猛に戦いますが、最終的には黒田長政の部隊からの銃撃により、命を落としました。

その戦いぶりは、関ヶ原の戦いの激しい戦闘の中でも特に印象深いエピソードとして記憶されています。

彼の死は、西軍の士気に大きな影響を与えたと言われています。61歳という生涯の終わりに、彼は自らの信じる道を全うしました。

島清興の生涯を振り返ると、彼はただの武将ではありませんでした。戦略家としての側面を持ち、自らの知恵と勇気で多くの合戦に挑みました。

特に、杭瀬川の戦いで見せた策略は、彼の知略を物語る好例です。石田三成への忠義を貫き、最後まで戦い続けた姿は、後世に語り継がれるべき勇敢さと忠誠心の象徴であると言えるでしょう。

彼の最期は、戦国の世を生き抜いた多くの武将たちの中でも、特に感動的なものであり、彼の名を永遠に不滅のものにしています。

島(左近)清興の逸話・エピソードまとめ

島清興に関する逸話は、彼の勇猛さと忠義深さを示す多くの話に彩られています。

勇猛さと忠義の精神は、時代を超えて尊敬され、多くの人々に影響を与えています。彼の物語は、勇気と忠誠の大切さを教えてくれることでしょう。

以下にその一部を紹介します。

石田三成への仕官

島清興が石田三成に仕官した経緯は、特に有名です。彼は多くの大名から招聘されていましたが、三成が彼に半分の領地を提供するという破格の待遇を提示したことで、最終的に三成に仕えることを決めました。

このエピソードは、島清興の武勇と知略がいかに高く評価されていたかを示しています。

杭瀬川の戦いでの奮闘

関ヶ原の戦いの前日にあたる杭瀬川の戦いで、島清興は僅かな兵力で東軍を奇襲し、大勝利を収めました。

この戦いでの彼の戦術眼と勇気は、西軍全体の士気を高める重要な役割を果たしました。彼のこの戦いでの活躍は、戦国時代の勇将としての彼の名声を不動のものにしました。

関ヶ原の戦いでの最期

関ヶ原の戦いで、島清興は石田三成を守るため、敵軍に突撃しましたが、黒田長政の部隊からの銃撃により戦死しました。

彼の最期は、主君への忠義と自らの勇気を最後まで貫いたことで知られ、後世に語り継がれています。

大和国での若き日

島清興は、若い頃から大和国の地でその名を馳せていました。彼は筒井順慶に仕え、松倉重信(右近)とともに「筒井の右近左近」と称され、大和国の平定に貢献しました。

この時期の彼の活躍は、後の猛将としての礎を築くものでした。

徳川家康への警戒

島清興は、豊臣秀吉没後の政情不安定期において、徳川家康の動向を早くから警戒していました。

彼は石田三成に対し、家康に対する積極的な対策を何度も進言しましたが、これが受け入れられなかったこともあります。この先見の明は、彼がただの勇士ではなく、戦略家であったことを示しています。

島(左近)清興と関わりのある場所まとめ

島(左近)清興と関わりのある場所を紹介します。これらの場所は、島清興の生涯と彼が遺した歴史の足跡を辿る上で重要な意味を持ちます。

水口城(滋賀県甲賀市)

水口城は石田三成が島清興に領地の一部として提供した城です。この城の提供は、三成が島清興の武勇と知略を高く評価していた証拠とされています。水口城はその後、島清興と石田三成の強い絆を象徴する場所として、歴史に名を残しています。

関ヶ原古戦場(岐阜県不破郡関ヶ原町)

関ヶ原の戦いは、島清興が最後に戦った場所です。彼はここで勇敢に戦い、最終的に命を落としました。この古戦場は、日本の歴史を大きく変えた戦いの場として知られ、島清興の勇猛な姿を思い起こさせます。

佐和山城(滋賀県彦根市)

佐和山城は石田三成の居城であり、島清興と石田三成の関係の深さを象徴する場所です。島清興は石田三成の最も信頼する家臣の一人であり、彼の居城である佐和山城は、その絆の象徴として歴史に記憶されています。

杭瀬川(岐阜県大垣市)

杭瀬川は、関ヶ原の戦いの前日に島清興が東軍を奇襲し、大勝利を収めた場所です。この戦いでの彼の活躍は、西軍の士気を高める重要な役割を果たしました。杭瀬川は島清興の戦術眼と勇気が光った場所として知られています。

椿井城(奈良県生駒郡平群町)

椿井城は、筒井家臣時代に島清興の本拠地だったとされる場所です。この城は、島清興の若き日々を過ごしたとされ、彼の戦国武将としての基盤を築いた場所として重要です。

椿井城は島清興の武勇の原点を感じさせる場所であり、彼の歴史を深く理解する上で欠かせない場所です。

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