上杉景勝とはどんな人物?何をした人なのかエピソードや性格・人柄を解説!

戦国時代、上杉謙信の養子としてその遺志を継ぎ、越後国を中心に活躍した上杉景勝。謙信が亡くなった後の越後を守り、豊臣秀吉との関わりを通じて日本の歴史に名を残した名将です。

関ヶ原の戦い後、領地を減らされながらも米沢藩を立藩し、その晩年まで藩政に尽力。彼の治世は、時に厳しくも公正であったと評されます。

この記事では、上杉景勝の波乱に満ちた生涯をたどりながら、彼が戦国時代の激動の中でどのような人生を送ったのか解説していきます。それでは、上杉景勝の壮大な人生をみていきましょう。

目次

上杉景勝の出身地や生まれ年は?

戦国時代、数多くの武将がその名を歴史に刻んでいますが、上杉景勝もまた、特に輝かしい功績を残した一人です。彼は弘治元年、現在の新潟県にあたる越後国で、長尾政景の次男としてこの世に誕生しました。景勝の少年期は、叔父である名将・上杉謙信のもとで過ごし、その影響を深く受けて成長しました。

景勝の人柄は、寡黙でありながらも義に篤く、周囲からの信頼も厚いものでした。その生き方は、戦場だけでなく政治の場でも高く評価されていきます。彼の人生は、御館の乱や関ヶ原の戦いなど、数々の大きな合戦に関わることとなり、時には苦難も経験しました。

同時代の人々や後世の歴史家からは、景勝はその冷静な判断力と、部下や民に対する深い配慮から、非常に高い評価を受けています。特に、家康との対立においても、彼の品格と戦略が注目され、多くの学者がその人生を研究の対象としています。

また、彼の武勇だけでなく、文化や芸術への深い理解と支援も忘れてはならないでしょう。これらの側面も、景勝の多面的な魅力を形作っています。

上杉景勝の生涯は、戦乱の世を生き抜いた多くの武将の中でも、特に人々に感銘を与えるものがあります。その行動一つ一つが、後世の人々にとって大きな学びとなることでしょう。そして、彼の生き方は、今日に生きる私たちにも多くのことを教えてくれるはずです。

上杉景勝の人生とは?やったことや人となり

幼少時代から家督相続・御館の乱

上杉景勝は、1555年、越後国で長尾政景の次男として誕生しました。彼の幼少期は、越後国の名門・長尾家で過ごしましたが、父政景が早世したため、叔父である上杉謙信のもとで育てられることになります。謙信は独身で子どもがいなかったため、景勝はその養子として迎えられ、後継者としての教育を受けることになりました。

謙信は戦国時代を代表する武将の一人であり、彼から武芸や政治の知識を学んだ景勝は、若いながらもその才能を開花させていきます。謙信からは、特に信念を持って行動することの重要性を学び、景勝自身もその教えを生涯にわたって守り続けました。

1578年、謙信が亡くなると、上杉家の後継者問題が表面化します。謙信は生前、北条氏康の七男・景虎(後の直江兼続)を養子にしていましたが、正式な後継者としては景勝を指名していました。しかし、この選択は一部の家臣団の反発を招き、「御館の乱」と呼ばれる内紛に発展します。この争いは、景勝が勝利を収めることで決着し、彼は上杉家の当主となりました。

御館の乱の際、景勝は謙信の遺志を継ぎ、越後国の統一に努めました。また、この乱を通じて、景勝と直江兼続の間には深い信頼関係が築かれ、後の活躍の基盤となります。

天正壬午の乱から豊臣五大老就任と会津への移封

本能寺の変後、上杉景勝は織田信長の軍が撤退する隙をついて、信濃や上野で勢力を拡大しました。特に、天正壬午の乱では北条氏直との争いを経て、北信濃4郡を手に入れました。

羽柴秀吉が台頭すると、景勝は秀吉との関係を築き、賤ヶ岳の戦いでの協力をはじめとして、越中国への侵攻など、積極的に行動を共にしました。しかし、放生橋の戦いでは新発田重家に大敗を喫し、一時は大きな打撃を受けました。

秀吉の下での活躍は目覚ましく、小牧・長久手の戦いや富山の役での功績は大きなものがありました。また、真田昌幸を一時的に従属下に置くことで、信濃国や上野国の支配を強化しました。天正14年には秀吉との会見を果たし、越後、佐渡、出羽の諸国での影響力を確固たるものにしました。

天正15年には新発田重家の乱を鎮圧し、越後国のほぼ再統一を成し遂げました。天正16年には庄内三郡を制し、豊臣姓と羽柴の名を下賜されるなど、その地位は頂点に達しました。さらに、秀吉の小田原征伐や朝鮮出兵にも参加し、国内外での軍事行動に積極的に関わりました。

文禄4年には五大老の一人として政治の最前線に立ち、会津120万石への加増移封を受けて「会津中納言」と称されました。しかし、その支配地は山地に囲まれ、伊達政宗や最上義光といった隣国との緊張を高める原因ともなりました。

豊臣秀吉の死から会津征伐まで

豊臣秀吉の死後、上杉景勝の運命は大きく変わりました。秀吉が亡くなった慶長3年(1598年)8月、上杉家は徳川家康との間で対立が深まります。家老の直江兼続が石田三成と親密であったことも対立の一因でした。秀吉の葬儀のために上洛したのは同年9月17日のことです。

慶長4年(1599年)8月22日に会津へ帰国後、景勝は領内で大規模な軍事強化に取り組みます。山道の開拓、橋梁の修理、そして浪人の集結など、防衛体制を固めました。また、28の支城の整備を行い、慶長5年(1600年)2月には、新城(神指城)の築城を直江兼続に命じました。

しかし、慶長5年4月に家康からの上洛命令を拒否すると、家康との対立は決定的になります。この拒否は、家康による会津征伐の口実となりました。家康は大軍を率いて景勝討伐に向かい、景勝は神指城の急ピッチでの建設を指示しましたが、家康軍の対応に追われる形となりました。

7月には家康の留守中に三成が挙兵し、関ヶ原の戦いが勃発します。景勝も会津から出兵し、伊達政宗や最上義光率いる東軍と対峙しました。これが慶長出羽合戦の始まりです。

しかし、9月15日に三成ら西軍が敗れると、景勝は孤立し、12月には家康に降伏するしかなくなりました。慶長6年(1601年)2月、家康は景勝の上洛と陳謝を促し、景勝は謝罪して上杉氏の存続が許されました。

最終的に、景勝の処分は慶長6年8月に確定し、出羽国米沢30万石に減封されました。これにより、上杉家は北信越から出羽の地方大名へと地位を落とすことになったのです。

徳川政権下と大阪の陣

上杉景勝は、徳川政権下で米沢藩主として新たな生活をスタートさせました。米沢に国替えされた後、直江兼続が多数の家来をそのまま引き連れて行ったことで、上杉家は経済的に苦しい状況になりました。

しかし、景勝は米沢城を改修・拡張し、藩政の確立に尽力しました。慶長8年(1603年)2月21日には、幕府から江戸桜田に藩邸を与えられ、伏見や大坂にあった上方の屋敷も保持し続けました。

大坂冬の陣では徳川方に起請文を提出し、直江兼続と共に出陣しました。二条城で家康と謁見し、鴫野の戦いで大功を挙げました。この年は大坂で越年しました。

慶長20年(1615年)4月、豊臣家が大坂からの退去を拒否したため、景勝は出兵し、大坂夏の陣では京都警備を担当。5月には大坂城が落城し、景勝は米沢へ帰国しました。

上杉景勝の最期|何歳で死んだ?

大坂の陣の後、景勝は米沢に帰国しました。彼の帰国後の生涯は、米沢藩の藩政強化に向けた努力が中心であったとされています。

この期間は短く、特に大きな武勲を挙げることはありませんでしたが、米沢藩内での統治と安定化に尽力したことは、その後の米沢藩の基盤固めに大きく寄与しました。

元和9年(1623年)3月、米沢城にて最期を迎えました。高野孫兵衛と中野甚助の2名の家臣が殉死し、景勝と同じ法音寺に葬られました。

上杉景勝の死は、米沢藩にとって大きな損失であり、彼の死後、米沢藩は様々な困難に直面します。しかし、彼の治世での努力は、後の藩政に大きな影響を与え、上杉家が江戸時代を通じて存続する基盤を築きました。

上杉景勝の人生は、戦国時代から江戸時代初期にかけての日本の動乱期を生き抜いた武将の中でも、特に注目される存在です。

その生涯は、戦乱の世を乗り越えて新たな時代の到来に備えた一族のための努力に費やされました。上杉景勝は、武勇だけでなく、治世においても高い評価を受けるべき人物であるといえるでしょう。

上杉景勝の逸話・エピソードまとめ

上杉景勝は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した名将であり、多くの逸話が残されています。特に注目されるのが、彼の人柄を垣間見ることができる以下の三つのエピソードです。

これらのエピソードは、上杉景勝がただの武将ではなく、人間味溢れる魅力的な人物であったことを示しています。戦場だけでなく、人としての深い魅力を持っていたことが、彼を戦国時代の中でも特別な存在にしているのです。

感情を表に出さない主君の唯一の笑み

上杉景勝は普段から感情を表に出さないことで知られていましたが、ある日飼っていた猿が景勝の頭巾をかぶり、お辞儀をした際には思わず笑ってしまったというエピソードがあります。この話からは、普段は厳格で感情を表に出さない景勝でも、親しい者や動物の前では心を開く一面があったことが伺えます。この唯一の笑みは、彼の人間らしさや温かさを象徴するものとして、後世に語り継がれています。

上杉景勝と真田幸村

上杉景勝は、真田幸村を「客将」として敬い、その才能を見抜いていました。真田幸村が若くして上杉家に滞在していた際、景勝は幸村の武将としての能力を高く評価し、彼を実力ある武将として扱ったとされています。このエピソードは、景勝が人の才能を見抜く鋭い眼力を持っていたこと、そして若き武将に対しても公正な評価を下す公明正大な人物であったことを示しています。

上杉景勝と前田慶次

前田慶次が豊臣秀吉の宴で猿の面をかぶり、踊り出した際、列席している大名達の膝の上に座りながら猿真似を行っていましたが、上杉景勝の前に来ると、その威風に圧倒されて座ることができなかったというエピソードがあります。この話は、景勝が持つ威厳や人間としての魅力が、他の武将たちにも認められていたことを物語っています。前田慶次が景勝の前では振る舞いを慎んだことから、景勝がどれほど尊敬され、恐れられていたかが分かります。

上杉景勝と関わりのある場所まとめ

米沢城(山形県米沢市)

米沢城は、上杉景勝が関ヶ原の戦い後に減封された際、主要な居城とした場所です。この城を中心に、景勝は米沢藩の基盤を築き上げました。米沢城は、景勝の政治や文化への影響を色濃く残す地であり、現在も上杉家の歴史を伝える貴重な遺産として多くの人々に親しまれています。

春日山城(新潟県上越市)

春日山城は、上杉景勝が越後国の領主として過ごした城です。この城は上杉謙信の時代から上杉家の本拠地として栄え、景勝も若き日にここで謙信の跡を継ぎ、戦国武将としての力を蓄えました。そのため、春日山城は上杉家にとって非常に重要な歴史的地点とされています。

会津若松城(福島県会津若松市)

会津若松城は、豊臣秀吉の時代に上杉景勝が治めた城です。この城を中心に、景勝は豊臣政権下での会津120万石の統治を行いました。会津若松城は、景勝の統治能力と戦略的思考を示す象徴として、今もなお多くの歴史愛好家にとって重要な場所となっています。

神指城(山形県米沢市)

神指城は、関ヶ原の戦いの前に上杉景勝が築城を命じた城です。徳川家康による会津征伐に備え、景勝はこの城の急速な建設を進めました。神指城の築城は、上杉家が直面した政治的緊張と、景勝の危機管理能力を象徴する出来事として知られています。

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