武田勝頼とはどんな人物?何をした人なのかエピソードや性格・人柄を解説!

戦国時代、甲斐の国を治めた武田勝頼は、父・武田信玄の広大な遺産を継承しました。しかし、その治世は多くの試練に見舞われ、勝頼は困難な局面に立たされます。

長篠の戦いでの大敗や、信長による甲州征伐など、勝頼の政治・軍事面での決断が、後世にどのように評価されているのか。

この記事では、勝頼の生涯を通じて見えてくる、戦国時代の権力闘争と人間模様を解き明かしていきます。勝頼の人物像や武田家の興亡について、詳しく見ていきましょう。

目次

武田勝頼の出身地や生まれ年は?

武田勝頼は、1546年に武田信玄の息子として誕生しました。彼の父、信玄は戦国時代を代表する猛将であり、勝頼もその後を継いで甲斐の国主となりました。

勝頼の時代には、多くの難題が彼の前に立ちはだかりましたが、特に記憶に残るのは、1575年の長篠の戦いです。この合戦では、織田信長と徳川家康の連合軍に大敗を喫しました。

しかし、勝頼の治世は戦だけに限らず、内政にも力を注いだことが伝わっています。彼は領民の生活向上に努め、父・信玄にも引けを取らない統治力を発揮しました。さらに、高天神城の攻略など、武田家の勢力拡大にも貢献した点は評価されています。

後世の評価については、長篠の戦いでの敗北や武田家の滅亡が影を落とすこともありますが、勝頼が直面した困難な状況の中での努力や、家臣や領民への配慮は高く評価されるべきです。

また、武田信玄とは異なるアプローチで武田家を守ろうとした彼の姿勢は、多くの歴史ファンにとって興味深い話題を提供しています。

勝頼の生涯は、戦国時代の激動を生き抜こうとした一人の武将の奮闘記として、今日でも多くの人々に語り継がれています。彼の遺した歴史は、逆境に立ち向かう勇気と、変化に適応しようとする柔軟性の大切さを教えてくれます。

武田勝頼の人生とは?やったことや人となり

幼少期から武田家相続まで

武田勝頼は、信玄と同盟関係にありつつも自らの手で滅ぼした諏訪家の血を引いていました。

家督相続の道は平たんなものではありませんでした。1567年、信玄の長男・義信が謀反の疑いで処刑された後、勝頼の立場は大きく変わります。

武田家では、本来ならば長男が跡を継ぐのが普通でしたが、義信の死によって勝頼が次の当主候補として急浮上しました。盲目の信親と若くして亡くなった信之を除き、勝頼が最も適任と見なされたのです。

勝頼が正式に家督を継いだのは、信玄の死後の1573年のことでした。この時、彼は信玄が築き上げた甲斐国の支配を引き継ぎ、武田家の新たな時代を築く責任を背負うことになります。

勝頼の家督相続は、信玄の遺言に従い、信玄の死を3年間秘密にするという難しい決定を伴いました。この策略は、武田家の安定と、周囲の大名たちを欺くために実行されましたが、勝頼自身の政治的・軍事的能力を試す大きな試練でもありました。

織田・徳川連合との戦いと長篠の戦いまで

武田勝頼が家督を継いだのは1573年、父・武田信玄の死後です。信玄の没後、勝頼は急速に力をつけ、武田家を継ぐ重圧と期待に応えようとしました。彼の治世の初期、特に注目されるのは1575年の長篠の戦いと、それに先立つ高天神城の攻防です。

高天神城の戦いは、勝頼の武田家が徳川家康と対立していた背景の中で発生しました。勝頼は、遠江国にある高天神城を攻略しようと試み、これを成功させます。この勝利は、勝頼の軍事的才能を示すものであり、武田家の威信を一時的に高めました。

しかし、1575年に起きた長篠の戦いでは、織田信長と徳川家康の連合軍に対して武田家伝統の騎馬隊を駆使して戦いましたが、鉄砲を用いた新戦術に破れ、武田軍は大敗を喫しました。この敗北は、武田家にとって大きな打撃となり、勢力の衰退を加速させることになります。

長篠の戦い直後から甲州征伐まで

長篠の戦いでの敗北で大きな打撃を受けた武田家は、織田信長と徳川家康の反攻に直面しました。

特に目立ったのが、徳川家康による遠江二俣城の包囲と犬居谷の光明城攻撃であり、これらは勝頼の支配地域への侵入を意味していました。勝頼は織田・徳川連合軍に対抗するため、穴山梅雪を江尻城代とし、駿遠の防衛を彼に委ねました。

天正3年(1575年)6月、家康が諏訪原城を落城させた後、勝頼は小山城を救援し、一時的には徳川軍を撤退させることに成功しましたが、この勝利も長くは続きませんでした。

天正4年(1576年)春には、勝頼自らが高天神城の救援に出兵し、徳川方の横須賀城を攻めましたが、激しい抵抗に遭い、最終的には撤退を余儀なくされました。

この時期、勝頼は外交面でも活動を展開し、北条氏との関係修復や上杉氏との同盟を通じて織田信長の圧力に対抗しようとしました。

しかし、上杉謙信の死後に勃発した御館の乱に際しては、上杉景勝への支持を表明し、北条氏との関係が悪化。この動きは、甲相同盟の破綻を招き、武田家にとってさらに厳しい状況を生み出しました。

武田勝頼の最期|何歳で死んだ?

1582年、織田信長による甲州征伐が始まると、多数の裏切りもあって武田家の城は次々と陥落。勝頼は新府城を去ることを余儀なくされました。

この時、嫡男信勝の籠城主張や真田昌幸の上野岩櫃城への逃走提案がありましたが、最終的には新府城を捨てて小山田信茂の岩殿城への撤退が決定しました。ですが、この決断が武田勝頼の運命を決定づけることになります。

女性や子供も含む200余人が困難な道のりを歩き、血に染まった足で山道を進みました。しかし、目的地に近づいたところで小山田信茂が裏切り、入り口を封鎖されるという厳しい現実が待っていました。

最終的に、天目山でわずかな手勢と共に織田軍の大軍に立ち向かいましたが、圧倒的な敵の前に勝利することは叶いませんでした。最終的に、勝頼は家臣や親族と共に自害を選択し、武田家の400年の歴史に幕を閉じました。

武田勝頼の生涯を振り返ると、彼は戦国時代の激動の中で、父・武田信玄の遺した強大な遺産を守り抜こうとした武将であったと言えるでしょう。しかし、時代の流れや外敵の圧力に翻弄され、苦難の連続だったことも否めません。

彼の生涯は、勇敢さと悲劇が交錯する戦国時代の一頁として、後世に語り継がれているのです。勝頼の武勇と最後までの抵抗は、多くの人々に勇気と教訓を与えています。

武田勝頼に対する同世代の評価

戦国時代の武将、武田勝頼に対する同世代の人物からの評価は、様々な視点から見ることができます。勝頼の政治や軍事に対する姿勢は、時に批判され、時に高く評価されていました。

まず、穴山信君は勝頼が家督を継いでからの十年間、讒人を重用し、親族の諫言に耳を貸さなかったと批判しています。これにより、武田家の政治は大いに乱れたと述べています。

この評価は、勝頼の政治的判断が武田家内部の不和を生んだという視点を示しています。ただし、穴山信君は武田勝頼を裏切った人物であり、上記は裏切った後の話であることは考慮するべきです。

一方で、上杉謙信は勝頼を「片手間であしらえるような相手ではない」と評し、織田信長に対し、勝頼への警戒を促しています。

謙信のこの評価は、勝頼が単なる若輩ではなく、一定の脅威を持つ存在であったことを示しています。また、信長も当初は勝頼を軽視していましたが、東美濃侵攻を通じてその武勇を高く評価するようになり、長篠の戦い後は勝頼を自らの脅威と見なしていたことが伺えます。

徳川家康は、勝頼が新府城を去る際のエピソードにおいて、勝頼が中世人の常識を超えた行動を取ったと評価しています。

この行動は、武田領国内での新たな秩序を構築しようとする勝頼の意志を示しており、先例にとらわれない勇気と新機軸を打ち出す姿勢が見て取れます。家康のこの評価は、勝頼が伝統を重んじつつも、時代に合わせて変革を試みる柔軟性を持っていたことを示しています。

これらの評価から、武田勝頼が同時代の人物からどのように見られていたかが明らかになります。政治的な失策があったとはいえ、その武勇や変革に対する意志は、一定の尊敬を集めていたことが伺えます。

勝頼の生涯は、困難に直面しながらも、自らの信念を貫こうとした武将の姿を示していると言えるでしょう。

武田勝頼と関わりのある場所まとめ

武田勝頼と関わりのある場所を紹介します。

高遠城(長野県伊那市)

高遠城は、武田勝頼が初めて城主となった場所です。この城は信玄の時代からの重要な拠点であり、勝頼が家督を継ぐ前の重要な役割を担っていました。美しい桜の名所としても知られ、今でも多くの観光客が訪れます。

躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)

躑躅ヶ崎館は、武田家の本拠地であり、勝頼が武田家の家督を相続した後も、政治や軍事の中心地として機能していました。現在は公園として整備されており、武田家の歴史を感じることができます。

長篠の戦場(愛知県新城市)

長篠の戦場は、武田勝頼が徳川家康・織田信長連合軍と戦った場所です。この戦いで武田軍は大敗を喫し、勝頼の運命に大きな影を落としました。現在は史跡公園として保存され、戦いの様子を伝える資料館が設置されています。

新府城(山梨県韮崎市)

新府城は、勝頼が甲府の躑躅ヶ崎館から移り、新たに築城した城です。ここから武田家の再興を目指しましたが、甲州征伐の際にはこの城を捨てて退去することになります。現在はその跡地が残り、勝頼の苦悩を偲ぶことができます。

天目山(山梨県甲府市)

天目山は、武田勝頼が最期を迎えた場所とされています。新府城を去った後、追手から逃れる中でこの地で自刃したと伝えられています。山の中腹には勝頼を祀る祠があり、訪れる人々にその悲劇的な終焉を伝えています。

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