本願寺顕如とはどんな人物?何をした人なのかエピソードや性格・人柄を解説!

本願寺顕如は、戦国時代に織田信長の野望に立ち向かった僧侶です。彼は浄土真宗本願寺派の宗主として、信長との間で激しい抗争を繰り広げた人物です。

石山本願寺を中心に展開されたこの戦いは、ただの力の衝突ではなく、信仰と生き方をかけた壮絶な抵抗でした。

本願寺顕如の人生は、戦乱の世を生き抜いた武将たちとは一線を画す、深い信念と不屈の精神の物語です。

この記事では、そんな本願寺顕如の生涯と彼が残した足跡について、詳しく紹介していきます。

目次

本願寺顕如の出身地や生まれ年は?

戦国時代から安土桃山時代にかけての浄土真宗の僧であり、浄土真宗本願寺派の第11世宗主として知られる本願寺顕如は、1543年に生まれました。父は同派の第10世宗主である証如です。

出身地は現在の京都府にあたり、その時代の社会的・政治的複雑さの中で育ちました。本願寺顕如は、宗教指導者としての深い洞察力と強い信念を持ち合わせていたことで知られています。

彼の人柄は、寛容でありながらも、本願寺派とその信者たちの保護と発展のためには厳しい決断も厭わない強さを持っていました。

後世の評価では、本願寺顕如は戦国時代の荒波を乗り越え、浄土真宗本願寺派を守り抜いた重要な人物として高く評価されています。

彼の遺した教えは今日にも引き継がれ、多くの人々に尊敬されています。本願寺顕如の生涯は、信念を持って困難に立ち向かう姿勢の大切さを教えてくれます。

本願寺顕如の人生とは?やったことや人となり

本願寺顕如の生涯は、信念を持って困難に立ち向かう姿勢を示し、後世に多大な影響を与えました。

彼の指導のもと、本願寺派は戦国時代の荒波を乗り越え、現在に至るまでその教えが受け継がれています。

そんな本願寺顕如の人生を紹介します。

誕生から織田信長への敵対まで

本願寺顕如は、幼い頃から深い宗教的知識と優れた指導力を身につけるための厳しい教育を受けていました。

1554年、わずか11歳の時、父証如が亡くなり、本願寺顕如は浄土真宗本願寺派の第11世宗主としてその座を継ぐことになりました。若年での宗主就任は、本願寺顕如にとって大きな挑戦であり、彼の指導のもとで本願寺派は大きな変革の時代を迎えることになります。

本願寺顕如の治世の初期、本願寺は織田信長とは直接的な敵対関係にはありませんでした。しかし、信長の勢力拡大とともに、その政策が本願寺派の自治と信仰の自由に対する脅威となり始めました。

信長は、全国の宗教勢力を自らの支配下に置こうとしており、浄土真宗本願寺派も例外ではありませんでした。

1560年代に入ると、信長の野望は明らかになり、彼は本願寺派に対しても圧力を強めていきました。

本願寺派としては、信仰の自由と寺院の自治を守るため、信長との間に緊張が高まっていきました。この時期、本願寺顕如は精力的に全国の門徒を組織し、本願寺派の結束を固めるために奔走しました。彼のもとで、本願寺派は一致団結し、織田信長に対抗する力をつけていきます。

織田信長と本願寺顕如の間の敵対関係が顕著になったのは、信長が京都に進出し、天下統一を目指し始めた時でした。信長の京都支配の野望は、本願寺派の信仰と自治にとって直接的な脅威であり、本願寺顕如は信長に対して公然と反旗を翻すことになります。

本願寺顕如は、信長との交渉の場で毅然とした態度を崩さず、本願寺派の立場を堂々と主張したと言われています。また、信長に対抗するため、他の戦国大名や一向一揆とも連携し、抵抗の輪を広げました。

これらの行動は、本願寺顕如が単なる宗教指導者ではなく、戦国時代を生き抜くための政治的な洞察力と決断力を持っていたことを示しています。

本願寺顕如の信長との敵対は、彼がただ宗教的な信念のためだけではなく、信者たちの生活と信仰の自由を守るために立ち上がったことを示しています。その後の本願寺と信長の間の激しい抗争は、日本の歴史の中でも特筆すべき出来事として記憶されています。

信長包囲網における本願寺顕如

元亀元年(1570年)、信長が足利将軍家を利用して京都の支配を固めようとした際、本願寺顕如はこれに対抗するため、他の戦国大名や一向一揆と連携しました。

信長に対する包囲網は、この時期に形成され始めました。本願寺顕如は、信長の野望に対する最大の障壁の一つとなり、信長包囲網の重要な拠点として機能しました。

信長と本願寺顕如の間の緊張は、元亀元年の野田城・福島城の戦いで顕著になりました。この戦いは、本願寺派の門徒と織田軍との間で発生し、本願寺顕如の指導の下、本願寺派は信長に対して抵抗を続けました。

信長包囲網が最も顕著になったのは、天正元年(1573年)です。この年、信長は浅井長政と朝倉義景を滅ぼし、北陸方面での勢力を拡大しました。これにより、本願寺派をはじめとする信長の敵対勢力は大きな打撃を受けました。

しかし、本願寺顕如は折れませんでした。彼はさらに他の大名や一揆勢力との連携を深め、信長に対する抵抗を続けました。

石山合戦は、本願寺が拠点とする石山本願寺(現在の大阪市)で行われ、10年以上にわたる長期戦となりました。

この戦いの中で本願寺顕如は、織田軍との交戦だけでなく、内政にも力を入れ、寺内町の経済的基盤を強化しました。また、朝廷や他の宗教勢力との連携を深め、政治的な影響力を持つことで信長に対抗しました。

しかし、1580年に入ると、信長の圧倒的な軍事力に対抗するのが困難になり、本願寺と信長との間で和睦が成立しました。

本願寺顕如は本願寺を退去し、紀州の鷺森御坊(現和歌山県)に移りました。この和睦は、信長との間での武力衝突を終結させるものでしたが、本願寺としては信長に対する一定の譲歩を余儀なくされた形となりました。

豊臣政権下における本願寺顕如の動向

秀吉が天下統一を目指し始めた時、本願寺顕如はすでに信長との和解を果たし、石山本願寺から撤退していました。しかし、その後も本願寺顕如は重要な宗教指導者として、また一大勢力の領袖として、豊臣政権と様々な形で関わっていきます。

特に注目すべきは、1585年に秀吉が実施した京都の一向一揆の鎮圧です。秀吉は全国の寺社領の検地を行い、本願寺派にもその対象を及ぼしました。

本願寺顕如は秀吉との関係を良好に保つため、ある程度の協力を見せます。この時期、秀吉と本願寺顕如との間には、互いに利害が一致する場面もありましたが、本願寺の勢力を恐れる秀吉としては、本願寺顕如との関係を慎重に扱っていたと言えます。

また、本願寺顕如は秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際、秀吉から朝鮮への布教を依頼されるなど、外交面でも一定の役割を果たしました。このように、秀吉は本願寺顕如の影響力を認識し、利用しようとしていたのです。

本願寺顕如の生涯で特筆すべきは、1588年に秀吉が実施した刀狩りに際して、本願寺派がその実施に協力したことです。

これは武装解除により社会の安定を図る秀吉の政策に、本願寺が協力した形となります。この出来事は、秀吉と本願寺、特に本願寺顕如との間にある程度の信頼関係が築かれていたことを示しています。

しかし、本願寺顕如と秀吉の関係は、常に一筋縄ではいかないものでした。本願寺顕如は秀吉の天下統一の動きを支えながらも、本願寺派の独立性を保持しようと努めました。

そのため、時には秀吉との間に緊張関係が生じることもありましたが、本願寺顕如は巧みに政治的なバランスを取りながら生き抜きました。

本願寺顕如の最期|何歳で死んだ?

戦国時代を生きた浄土真宗の高僧であり、本願寺派第11代宗主として知られる本願寺顕如は、1592年12月27日に50歳でこの世を去りました。

生涯を通じて、織田信長や豊臣秀吉といった戦国大名と巧みに交渉し、時には抗争を繰り広げながらも本願寺派の存続と発展に尽力しました。本願寺顕如の最期は、平和な時代の到来を見届けることなく訪れたものの、彼が残した遺産は計り知れないものがあります。

本願寺顕如の時代は、日本が統一国家へと歩み始めた転換期でした。彼は、信長との対立を通じて宗教勢力の独立性を守り抜くとともに、秀吉との和解によって本願寺派の未来を確保しました。

これらの出来事は、本願寺顕如がただの宗教指導者にとどまらず、戦国時代の荒波を航海する賢明な船長であったことを物語っています。

本願寺顕如の生涯は、信念と柔軟性を併せ持つリーダーの模範と言えるでしょう。彼の決断一つ一つが、本願寺派、さらには日本の歴史の流れを変えるほどの影響力を持っていたことは疑いようがありません。

本願寺顕如の死後、本願寺派は東西に分裂しましたが、その教えは今も多くの人々に受け継がれています。

本願寺顕如の物語からは、変化の時代においても自らの信念を貫き、しかし時には柔軟な対応を取ることの大切さが伝わってきます。

彼の生涯は、戦国時代という激動の中で宗教と政治のはざまで葛藤しながらも、自分の立場を守り抜いた一人の人間の歴史であり、多くの教訓を私たちに与えてくれます。

そもそも本願寺って?宗派の起こりと成長

本願寺は、浄土真宗の一派である本願寺派(現在は浄土真宗本願寺派と浄土真宗大谷派に分かれています)の本山です。

この宗派は、日本の鎌倉時代末期に親鸞によって創始されました。親鸞の教えは、阿弥陀仏の願い(本願)に基づいて、すべての人が念仏を唱えることで極楽浄土に往生できると説いています。

本願寺派は、室町時代に親鸞の孫である蓮如が活動を広げることで大きく成長しました。

蓮如は、信者たちの信仰の場として「本願寺」と称する寺院を京都に建立し、これが後の本願寺派の中心となりました。特に蓮如の下で、浄土真宗は広く一般の人々に受け入れられるようになり、本願寺は信仰上の拠点としてだけでなく、政治的、経済的な影響力を持つようになりました。

しかし、戦国時代には、本願寺と織田信長との間で石山合戦が発生し、本願寺派はこの戦いを通じてさらにその結束を強めました。

本願寺はその後、本願寺派(西本願寺)と大谷派(東本願寺)に分裂しましたが、どちらの宗派も親鸞の教えを中心に信仰を続けています。現在も本願寺派と大谷派は、日本を代表する仏教宗派の一つとして、多くの信者に支持されています。

本願寺顕如の逸話・エピソードまとめ

本願寺顕如の逸話・エピソードを紹介します。

豊臣秀吉との関係

豊臣秀吉との関係構築も本願寺顕如の重要なエピソードです。秀吉が全国統一を進める中で、本願寺顕如は本願寺派の立場を守るために、秀吉とも協力関係を築きました。

秀吉の朝鮮出兵では、本願寺派の僧侶を朝鮮に派遣して布教活動を行うなど、秀吉の政策に協力。

このエピソードは、本願寺顕如が時代の変化を読み、本願寺派の利益を最大限に守るために、豊臣政権とも柔軟に関係を築いていたことを示しています。

石山本願寺の築城と防衛

石山本願寺の築城とその防衛策は、本願寺顕如のエピソードとして特筆すべきです。本願寺顕如のもと、石山本願寺は堅固な要塞として構築され、信長の攻撃に対して長期間にわたって抵抗し続けました。

このエピソードからは、本願寺顕如が宗教指導者でありながら、要塞の築城という軍事的な側面にも深い関心を持ち、本願寺派の防衛に尽力していたことがうかがえます。

鷺森御坊への移転

和解後、本願寺顕如は石山本願寺から鷺森御坊へ移転しました。この移転は、本願寺顕如が新たな環境で本願寺派の再興を図るという決断を下したことを意味します。

鷺森御坊での活動を通じて、本願寺顕如は本願寺派の教義を広めると同時に、地域社会との関係を深め、本願寺派の基盤を強固なものにしました。

このエピソードは、本願寺顕如が困難な状況の中でも新しい可能性を模索し、本願寺派の発展のために尽力したことを示しています。

本願寺顕如と関わりのある場所まとめ

本願寺顕如と関わりのある場所を紹介します。

石山本願寺(現在の大阪市)

石山本願寺は、本願寺顕如が織田信長と対立した際の主戦場であり、彼の抵抗の象徴とされます。当時、この地は要塞化され、一向一揆の拠点として知られていました。

本願寺顕如のもとで石山合戦が展開され、本願寺派の信仰心と結束力を示す場となりました。

この戦いは、信長の天下統一過程において重要な障害の一つとされ、本願寺顕如の政治的・軍事的手腕が試された場所です。

鷺森御坊(和歌山県)

鷺森御坊は、石山合戦後に本願寺顕如が退去し、その後の生活の拠点とした場所です。和歌山県に位置し、本願寺顕如はここで本願寺派の再興と布教活動に専念しました。

石山本願寺からの移転は、信長との和解を象徴するものであり、本願寺顕如にとって新たな出発点となりました。鷺森御坊は、本願寺顕如が本願寺派の未来を見据え、平和な時代を築こうとした意志を感じさせる場所です。

大坂城(大阪市)

大坂城は、豊臣秀吉が建造した城で、本願寺顕如とは間接的ながら深い関係があります。石山本願寺の跡地に築城されたこの城は、本願寺顕如がかつて抵抗の象徴とした地に豊臣政権の中心が建てられたことを意味します。

本願寺顕如自身は直接建造に関わっていませんが、石山本願寺の歴史と大坂城の建設は、戦国時代から安土桃山時代への政権の移行を物語る場所です。

石清水八幡宮(京都府)

石清水八幡宮は、本願寺顕如が信長との和解後に訪れたとされる神社です。京都府にあるこの神社は、本願寺顕如が平和を願い、また信長との関係改善のために参拝した場所として知られています。

本願寺顕如の生涯において、政治的な対立を超えて和解と再出発を図るその姿勢を示すエピソードが残されており、本願寺顕如の人となりを偲ぶことができる場所です。

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