第一次上田合戦とは?起きた原因や戦いの経緯・誰が戦ったのかを解説!

真田軍と徳川軍がぶつかった「第一次上田合戦」。この合戦は、真田昌幸の戦術的な洞察力と地の利を最大限に活かした防衛戦術の見事さによって特筆されます。

少数精鋭の真田軍が如何にして大軍を相手に圧倒的な戦果を挙げたのか、その舞台となった上田城や周辺の地理的特徴が如何に戦況に影響を与えたのか、詳細に迫ります。

この記事では、第一次上田合戦の背景、経過、そしてその後の影響について、歴史のページを紐解きながら詳しく探ります。

目次

第一次上田合戦とは?戦いの場所と起きた経緯

第一次上田合戦は、真田昌幸が築いた上田城を舞台に繰り広げられた戦いです。この戦闘は天正13年(1585年)、信州上田盆地で発生しました。

戦いの背景には、滅亡した武田家の領地を巡る大国間の権力争いがありました。

武田家滅亡後、その旧領は北条、上杉、そして徳川という戦国時代の大名によって争われていました。

真田昌幸は、この地域の小勢力でありながら、狡猾かつ巧みに大名たちとの間で生き残りをかけた政治を行っていました。彼は時に降伏し、時に裏切り、大名たちの間で生き延びる戦略を巧みに運用していたのです。

このような状況の中、真田昌幸は自らの手で上田城を築き、沼田エリアを支配下に置いていました。

しかし、天正壬午の乱が勃発すると、北条と徳川の和睦が成立し、昌幸の計画は脅かされることになります。この和睦によって、徳川と北条は真田の沼田領を巡り争い始めました。沼田エリアは戦略的に重要な位置にあり、真田家にとっては絶対に手放せない土地でした。

昌幸はこの和睦に反発し、憤怒のあまり、徳川家康に対して反旗を翻す決断をします。この時点で昌幸は、上杉家と手を組んでいました。

上杉家もまた、沼田領の支配を通じて北条家の北進を阻止しようとしていたため、昌幸との同盟は利害が一致していたのです。

結局、昌幸は徳川家康と北条氏政の両方を敵に回すことになりました。

徳川家康は、昌幸の造反を知ると、真田討伐を決定。約7000人の兵を率いる鳥居元忠らを上田城に向かわせます。

これが第一次上田合戦の開始に繋がります。

第一次上田合戦ではどう戦った?激突の流れ

合戦の火ぶたを切ったのは、徳川軍の侵攻でした。

彼らは上田城を目指して進んだものの、昌幸が用意していた東側の沼を利用した水堀により、進行が阻まれたのです。この水堀は、徳川軍にとって予想外の障害であり、攻略計画に大きな狂いが生じました。

徳川軍が上田城に迫った際、昌幸は慎重に状況を観察していました。敵が適切な距離に入ったと判断したところで、一気に反撃に転じました。

この際、昌幸は密かに砥石城に潜ませていた息子、真田信幸の別働隊を駆使し、徳川軍を驚かせました。

信幸の別働隊は徳川軍の不意を突き、背後からの奇襲を成功させました。徳川軍はこの予期せぬ攻撃により、混乱に陥り、神川での追撃によってさらに多数の兵が命を落としました。この状況は徳川軍に撤退を余儀なくさせるほど、深刻な影響を及ぼしました。

真田軍は地の利を最大限に活用し、少ない兵力でも大勢力に立ち向かう戦略を巧みに操りました。この戦いは、昌幸の高い戦術眼と、地形を利用した防衛の重要性を明らかにしました。

合戦は真田軍の圧倒的な勝利で幕を閉じました。

徳川軍は上田城の陥落を果たすことができず、1300人もの兵を失いながら撤退したのです。対して、真田軍の犠牲はわずか40人程度に留まり、昌幸の戦略の妙が際立っていました。

この勝利により、真田昌幸の名は、知略と勇気を兼ね備えた武将としての評価を確固たるものとしました。

第一次上田合戦の戦後処理と後世での評価

第一次上田合戦後、真田昌幸とその軍は、少数ながらも大勢の徳川軍を撃退した功績を讃えられました。この戦いは、昌幸の戦術的な洞察力と地形の利用による防御戦術の見事さを示し、後世に大きな影響を与えたのです。

徳川家康は、この戦いの後、真田家に対する評価を大いに高めました。家康は、真田家との和解を図り、その関係を強化するために、本多忠勝の娘を真田信幸に嫁がせることを決めたのです。

これは、戦後の政治的な戦略として非常に賢明な判断であり、徳川家の寛容さと見識を示しています。

この合戦により、真田家は小領主から大名へと地位を高め、戦国時代の激動の中で生き残るための戦略的な洞察力を世に示しました。昌幸の戦術は、限られた資源と兵力を持つ者が如何にして強大な敵に立ち向かうかを教えてくれます。

真田昌幸のこの勝利は、戦術と戦略の妙を説く数々の軍事学の教科書で繰り返し引用されています。彼の戦い方は、慎重かつ大胆な行動がいかにして大きな成果をもたらすかを示す、見事な例となっています。

戦後の処理として、真田家はその地位を固め、豊臣政権にも臣従し、天下の動向に適応する柔軟さと賢明さを示しました。昌幸は、単なる戦士ではなく、優れた戦略家であり、政治家であったことが明らかです。

後世での評価も非常に高く、昌幸の戦術は今日でも多くの人に学ばれ、尊敬されています。彼の教訓は、戦いだけでなく、日常生活やビジネスの世界においても、困難な状況を乗り越え、成功を収めるための智慧として受け継がれているのです。

第一次上田合戦が起きた場所や関連する場所へのアクセス方法

第一次上田合戦が起きた場所や関連する場所へのアクセス方法について、紹介します。

上田城(現在の長野県上田市)

真田昌幸が築城した上田城は、上田市の象徴的な存在です。新幹線を使えば、東京から上田駅まで約1時間30分で到着可能。上田駅からは徒歩やバスで城址にアクセスできます。城址は現在も公園として整備されており、当時の戦いを偲ぶことができます。

砥石城(長野県上田市)

真田家の支城であり、第一次上田合戦の際にも重要な役割を果たしました。上田駅から車で約20分の場所に位置し、城址へは徒歩での登山が必要です。緑豊かな自然に囲まれたこの地は、当時の戦略的な位置を感じ取るには最適な場所です。

小諸城(長野県小諸市)

徳川軍が一時撤退した場所として知られています。上田駅からJRで約30分、小諸駅で下車後、徒歩で城址にアクセス可能。城址は現在、公園として整備されており、市民の憩いの場となっています。

丸子城(長野県上田市)

第一次上田合戦の際、真田方に味方した丸子氏の城。上田駅から車で約30分の場所にあります。城址は小高い丘に位置し、周囲の風景とともに当時の雰囲気を感じることができるでしょう。

国分寺跡(長野県上田市)

徳川軍が本陣を置いたとされる場所。上田駅から車で約15分で到着します。現在は静かな住宅街となっていますが、歴史を感じさせる古い寺院や遺跡が点在しており、当時を偲ぶことができます。

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