三増峠の戦いとは?起きた原因や戦いの経緯・誰が戦ったのかを解説!

1569年、名将武田信玄と北条氏康の間に起こったのが「三増峠の戦い」です。高低差の激しい山岳地帯での戦闘は、両軍にとって極めて厳しい試練となりました。

この記事では、三増峠の戦いの背景、経過、そして戦いが後世にどのような影響を与えたのかを詳細に解説していきます。

それでは、戦国時代の風雲を集めたこの壮絶な戦いに迫ってみましょう。

目次

三増峠の戦いとは?戦いの場所と起きた経緯

1569年(永禄12年)、戦国時代の混沌とした時代背景の中で三増峠の戦いが勃発しました。この合戦は、相模原市緑区根小屋から愛甲郡愛川町三増にかけての地域で行われ、東日本の二大勢力、北条氏康と武田信玄の間で繰り広げられました。

戦いの発端は、1554年に結ばれた三国同盟の破綻にあります。

この同盟には北条氏康、武田信玄、そして今川氏が含まれていましたが、今川氏の衰退により同盟は崩れ、武田信玄は同盟から離脱して今川領への侵攻を開始します。

北条氏康は、この動きを牽制するために武田信玄に対抗しました。

1569年、武田信玄は後北条氏の居城である小田原城を攻めますが、わずか4日で撤退。その撤退途中、北条氏康は鉢形城と滝山城の部隊を三増峠に布陣させ、武田軍を挟撃しようと計画します。

この時、北条氏康は主力部隊とともに、北条軍約30,000と武田軍約21,000の大軍を率いていました。

三増峠の戦いではどう戦った?激突の流れ

三増峠の戦いは、1569年10月6日に始まりました。

北条氏は、三増峠に甲州街道守備軍の北条氏照と秩父方面守備軍の北条氏邦を配置。この二人の将に率いられた軍勢が、武田信玄の軍と対峙しました。

序盤は北条軍が優勢に見えました。特に、北条綱成の率いる鉄砲隊は、武田軍の左翼に大きな損害を与え、浅利信種や浦野重秀といった勇将を討ち取りました。

しかし、合戦の流れを変えたのは武田の山県昌景率いる別動隊でした。彼らは、敵の予想を裏切るように高所からの奇襲を成功させ、北条軍を大いに混乱させました。これにより、戦況は一気に武田軍に傾き始めました。

さらに、武田軍は千葉氏に向けて心理戦も展開。千葉氏が北条氏に服属していることをあざ笑うかのような言葉を投げかけ、敵軍の士気を下げました。このような巧みな戦術が、武田軍の勝利を後押ししたと言えるでしょう。

一方、北条氏政率いる本隊は、小田原城から合戦場に向かっていましたが、到着が遅れました。この遅れが、北条軍の敗因の一つとされています。もし氏政の軍が時間通りに到着していたら、結果は異なっていたかもしれません。

合戦の最終的な結果は、武田軍の勝利でした。戦いが終わると、信玄は軍を反畑まで移動させ、勝利を祝いました。一方で、北条氏政は敗戦の報を聞き、軍を引いたのでした。

この戦いの後、武田氏と北条氏は互いの力を認め合い、再び同盟を結びました。しかし、この激しい合戦の痕跡は今も残り、刀や槍、鉄砲の弾などが出土することがあります。

三増峠の戦いは後世でどのように評価されている?

三増峠の戦いは、後世にさまざまな角度から評価されてきました。戦国最大規模の山岳戦として知られるこの合戦は、高低差が大きく作用し、両軍に大きな影響を与えました。

この合戦については、『甲陽軍鑑』などの武田家側の史料に依拠した主観的な評価が主流でした。一方で、北条側の史料『北条五代記』では、北条軍の損害はわずかだったと記されています。

実際、北条氏照はこの合戦で勝利したと上杉家に宣言しています。しかし、実際には武田軍が勝利し、重要な武将を失うなど、両軍ともに大きな犠牲を払いました。

戦略的に見ると、この合戦は後北条氏が西方の今川氏を救援できなくなるきっかけとなり、武田氏の駿河侵攻を加速させました。また、武田氏主力が上野国に展開したことで、上杉謙信は越後に戻らざるを得なくなりました。

さらに、武田信玄の小田原攻撃は、関東の反北条勢力への示威としても機能し、越相同盟を揺さぶる効果があったと指摘されています。

しかし、一方でこの合戦を無益な戦いだと見る意見もあります。

信玄は敵地に深入りしてわずかな土地を得ることなく、多くの犠牲者を出して引き上げました。北条氏も、敵に本拠地を包囲され、退却する敵に反撃しようとしたものの、逆に撃退されるという失態を演じました。このように、双方にとって意味のない戦いであったという見解も存在します。

『甲陽軍鑑』の記述によると、高坂昌信はこの合戦を「無用の戦い」と断じ、信玄の名誉に傷をつけるものだと警告しています。

高坂が実際に「甲陽軍鑑」の作者かどうかは現在では疑問視されていますが、このような警告が史料に記されていること自体が、合戦の意味を今一度考え直す契機を提供しているのです。

三増峠の戦いが起きた場所や関連する場所へのアクセス方法

三増峠の戦いが起きた場所は、「三増合戦場碑」が立っています。この碑は、激しい戦が繰り広げられた三増峠の戦いを記念して、400年後の1969年に建立されました。

史書「甲陽軍艦」には、北条方3,269人、武田方900人の戦死者が記されており、この地から出土する武器などは、その激しい戦いを物語っています。アクセスは、圏央道相模原ICから津久井広域道路を経て、県道65号で約15分です。

この地を訪れる際は、「三増合戦みち」という散策路を歩くことをおすすめします。この道沿いには、戦死者を弔う首塚や、武田軍の侍大将「浅利信種」を祀る浅利明神が点在しており、当時の戦いを偲ぶことができます。

アクセスにはバスを利用し、小田急電鉄本厚木駅から約45分、バス停「三増」で降りてから徒歩15分ほどで到着します。

また、「武田信玄旗立松」は、信玄が本陣を構えた場所で、現在は石碑が立っています。場所は厚木東名カントリークラブ内にあり、営業時間内であれば受付に声をかければ自由に見学できます。

この地からは関東平野が一望でき、その絶景は訪れる価値があります。三増合戦場跡からは徒歩約20分の距離にあります。

歴史的な価値が高く、自然に恵まれたこの地を訪れることで、戦国時代の勇士たちの足跡をたどり、歴史に思いを馳せることができるでしょう。

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