上田城はどこにある?エピソードや歴代城主・観光できるかを紹介!

上田城は、戦国時代末期に真田昌幸が築いた堅固な城で、その歴史は今も多くの人々を魅了します。壮大な自然に囲まれ、築城から400年以上の歳月を経て、現在もその姿を留めています。

上田城は真田家による知略と勇気の象徴であり、特に「第一次上田合戦」と「第二次上田合戦」での難攻不落の防御力は、歴史にその名を刻んでいます。

本記事では、上田城の魅力的な歴史、その独特な構造、そして今も残る名所を紹介します。

目次

上田城はどこにある?建てたのはだれ?

所在地長野県上田市二の丸6263-イ
アクセス方法上田駅から徒歩12分、上田菅平インターから車で15分
電話番号0268-22-1274
営業時間9時00分~17時00分(入館は16時30分まで)
休業日・毎週水曜日
・祝日の翌日
・祝日が水曜日に当たるときはその翌日
・12月29日~翌年1月3日※上田城櫓は冬期(11月中旬~翌3月)休館
築城した人真田 昌幸
築城した年1583年(天正11年)
主な歴代城主真田氏、仙石氏、藤井松平家
天守閣の有無無し
観覧料上田市立博物館:300円
上田城櫓:300円
上田市立博物館・上田城櫓セット券:500円
※団体・障がい者・学生割引有

長野県上田市には、築城から400年以上が経つ歴史ある「上田城」があります。この城は、1583年に真田昌幸が築いたとされ、その後、真田家の本拠地として栄えました。

戦国時代、上田城は二度にわたり強大な徳川軍を退け、その難攻不落の防御力で知られています。

城そのものは、上田盆地の中央に位置し、豊かな自然に囲まれた地に建てられました。堀と土塁に囲まれ、虎口には石垣が築かれた堅牢な構造をしています。

かつては多くの櫓門や隅櫓がありましたが、今ではその一部を見ることができます。城内には石垣や土塁が残され、当時の雰囲気を今に伝えています。

真田家が松代に転封された後も、上田城の魅力は色褪せることがありませんでした。現在では、「上田城址公園」として整備され、四季折々の自然美とともに、訪れる人々を魅了し続けています。

春には「上田城千本桜まつり」が、秋には「上田城紅葉まつり」が開催され、年間を通して多くの観光客で賑わいます。さらに、信州上田真田丸大河ドラマ館が併設されており、真田氏に関する貴重な資料をこの目で確かめることができます。

上田城の歴史とは?どんな出来事があった?

上田城は、戦国時代末期に真田昌幸によって築城された歴史ある城です。1583年(天正11年)に始まったこの城の築城は、信濃国小県郡の真田氏館から本格的に移され、何度もの過程を経て完成しました。

上田城は、その後数多くの歴史的出来事の舞台となり、多くの武将たちの運命を左右する場となりました。

第一次上田合戦第二次上田合戦

1583年(天正11年)、真田昌幸は、信濃国小県に上田城を築き始めました。

織田信長によって武田勝頼が滅ぼされた後の混乱の中、真田家は上田に新たな拠点を築くことに決めました。しかし、これが後の激しい合戦の舞台となることを、その時は誰も予想していませんでした。

最初の試練は、1585年(天正13年)にやってきました。これが「第一次上田合戦」です。

真田昌幸は、徳川家康から上州沼田領を北条方に譲るよう命じられましたが、これを拒絶。この決断が、徳川軍との断交を招き、徳川軍は7,000の大軍で上田城に攻め込んできました。

しかし、真田昌幸は地の利を生かし、巧みな戦略でこの攻撃を撃退。わずか2,000人足らずの軍勢で、徳川軍を神川まで押し戻しました。

この勝利により、真田家の名声は一躍天下に鳴り響きました。

第二次上田合戦

1600年(慶長5年)に起きた「第二次上田合戦」は、関ヶ原の戦いに続くものでした。

豊臣秀吉亡き後、昌幸は西軍につき、徳川秀忠軍38,000人に対し、わずか2,500人で上田城に立てこもりました。

7日間にわたり、徳川軍を上田に釘付けにし、関ヶ原の主戦場に間に合わせないようにしました。

この戦いも真田家の巧みな戦術が光りましたが、関ヶ原の戦いで西軍が敗れたことにより、真田家はその後大きな影響を受けました。

昌幸と次男の幸村は和歌山県の九度山に幽閉され、上田城は徹底的に破却されました。

江戸時代の上田城

江戸時代には、上田藩の藩庁が置かれ、真田信之が統治を行いました。しかし、城の再整備・拡張の申請は却下され、仙石忠政が上田城の再建を行いました。1626年から現在の上田城が普請され、櫓や櫓門が再建されましたが、仙石忠政の死により工事は中断されました。

上田城の現在

現在、上田城は上田城跡公園として整備されており、毎年多くの市民や観光客で賑わいます。特に、上田城千本桜まつりの際には、多くの人々が訪れ、千本桜のライトアップは日本夜景遺産に認定されています。

敷地内には、上田市立博物館や招魂社が置かれており、真田神社もあります。この神社は、受験生の合格祈願で知られており、その境内には城外への抜け穴だったという古井戸があります。

上田城の歴史は、真田家の武将たちの活躍だけでなく、その後の仙石氏、松平氏による統治、そして廃城後の公園化に至るまで、多岐にわたります。

春には桜が美しく咲き誇り、秋には紅葉が観光客を魅了します。このように、上田城は、その長い歴史の中で、多くの人々に影響を与え、今もなお多くの人々に愛される場所として存在しています。

上田城は今はどうなってる?観光はできる?

上田城は、現在でもその歴史的な魅力を保ち、多くの観光客が訪れる人気の名所です。

この城は、独特な梯郭式の縄張りが特徴で、千曲川に面する断崖による天然の防御力を活かした構造をしています。観光できる主な名所としては以下のものがあります。

西櫓(県宝)

西櫓は、江戸時代初期の1626~1628年に仙石氏によって建てられた、現在上田城で唯一現存している建物です。

下見板張りの外壁と、漆喰で塗り固められた塗籠が特徴で、武者窓や矢狭間、鉄砲狭間などの防御施設も見ることができます。

現在は長野県宝として指定されており、特別に公開される期間も設けられています。

真田石

真田石は、上田城の東虎口櫓門右手の石垣に位置しており、高さ約2.5m、幅約3mの大石です。

この石には、真田信之(信幸)が松代城へ移封する際、父・真田昌幸の形見として持っていこうとしたが、石が微動だにしなかったという伝説が残っています。

この伝説は、真田家の知略と精神を象徴する物語として語り継がれています。真田石は、上田城の歴史的な背景だけでなく、真田家にまつわる伝説を感じさせる貴重な名所の一つです。

城内の石垣に使われている石材の多くは、市街地北方の太郎山から採取された緑色凝灰岩であり、真田石もその一部を形成しています。この巨大な石の存在は、訪れる人々に強い印象を与え、上田城の歴史をより深く理解する手がかりとなっています。

真田井戸

眞田神社の境内に残る真田井戸は、直径2m、深さ16.5mに及ぶ井戸で、抜け穴になっており、城北の太郎山麓の砦や上田藩主居館に通じていたと伝えられています。

この井戸は、上田城が持つ多くの伝説の一つであり、訪れる人々にその歴史的な背景を感じさせます。

尼ヶ淵

上田城の南側に位置する尼ヶ淵は、千曲川の緩やかで深い分流であり、天然の堀として城を守っていました。

崖面はもろく、崩れやすい性質だったため、築城以来保護対策が行われ、大規模な石垣が設置されています。

尼ヶ淵の存在は、上田城の別名「尼ヶ淵城」としても知られ、城の重要な防御施設としての役割を果たしていました。

これらの名所は、上田城の歴史的な価値と美しさを今に伝える重要な要素であり、訪れる人々にその時代の息吹を感じさせることでしょう。

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