「天空の城」と称される竹田城は、古城山の頂にそびえ立つ、歴史ある山城です。室町時代に山名宗全によって築かれ、その後、赤松広秀によって堅固な石垣が整備されました。
この城は、かつては武将たちの闘いの舞台でしたが、今では多くの人々を魅了する観光地となっています。
美しい石垣が連なる城跡は、四季折々の自然と調和し、特に秋の雲海は圧巻です。
ここでは、竹田城の歴史や魅力、訪れるべき理由について、深く掘り下げてご紹介します。美しい景色と豊かな歴史を持つ竹田城を、どうぞご覧ください。
竹田城はどんな城?建てたのはだれ?
項目 | 詳細 |
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所在地 | 兵庫県朝来市和田山町竹田古城山169 |
アクセス | 公共交通機関:JR「竹田駅」よりタクシーで約10分<br>車:播但連絡道「和田山JCT」から約15分 |
電話番号 | 079-674-2120 |
営業時間 | 入山規制があるため、インフォメーションより確認が必要 |
休業日 | 特に設定されていないが、冬季は積雪や凍結で入山禁止の場合あり |
築城した人 | 山名宗全(但馬の守護大名) |
築城した年 | 嘉吉年間(1441〜1443年) |
主な歴代城主 | 太田垣氏、羽柴秀長(秀長)、桑山重晴、赤松広秀(斎村政広) |
天守閣の有無 | 無し(現存しない) |
観覧料 | 大人(高校生以上)500円、中学生以下無料、団体割引あり |
竹田城は、兵庫県朝来市にある歴史的な山城です。山名宗全によって築かれたこの城は、標高353.7メートルの山頂に位置しており、「天空の城」や「東洋のマチュピチュ」と称されるほどの美しい景観で知られています。
城は嘉吉年間(1441〜1443年)に基礎が築かれ、その後、織田信長の命を受けた豊臣秀吉による攻略の舞台となりました。最終的には赤松広秀が城を再築し、石垣を整備しましたが、関ヶ原の戦い後に廃城となりました。
竹田城跡には、現在でも石垣や土塁が残されており、訪れる人々をその当時へといざないます。城跡からは周囲の自然景観を一望でき、特に秋から冬にかけての雲海は圧巻の美しさです。
アクセス方法としては、JR竹田駅からタクシーで約10分、または徒歩で山頂に向かうことができます。また、観光バスやレンタカーを利用することも可能です。
竹田城跡は国指定の重要文化財であり、その保存と管理には多くの努力が払われています。訪れる人々は、その歴史的価値を尊重し、美しい自然を守るためのルールを遵守しています。
現在、竹田城跡は国内外から多くの観光客が訪れる名所となっており、その美しさと歴史的価値は高く評価されています。
この美しい「天空の城」を訪れることで、あなたも日本の豊かな歴史と自然の息吹を感じ取ることができるでしょう。
美しい石垣に囲まれた山頂からの景色は、訪れた人々にとって忘れられない思い出となるはずです。
竹田城の歴史とは?どんな出来事があった?
竹田城は、日本の城郭史において特筆すべき存在であり、その歴史は多くのドラマを内包しています。
城は兵庫県朝来市に位置し、その美しい景観と歴史的重要性から「天空の城」とも称されています。以下に、主な出来事とその背景を詳しく解説します。
竹田城の築城(1441〜1443年)
竹田城の基礎は、室町時代の嘉吉年間に但馬国守護である山名持豊(山名宗全)によって築かれました。
彼はこの地の戦略的重要性を見出し、城を築いて地域の支配を固めました。この当時は、尾根に多くの曲輪や竪堀などを設けた大規模な山城であったとされています。
豊臣秀吉による攻略(1577年)
織田信長の命により、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が但馬侵攻を行い、竹田城もその標的となりました。城は秀吉の猛攻により落城し、その後、城主として桑山重晴が置かれました。
赤松広秀による再築(1585年頃)
天正13年、赤松広秀が城主となり、城の大規模な改修を行いました。この時に現在も残る石垣が築かれ、城の規模と機能が大きく向上しました。
関ヶ原の戦い後の廃城(1600年)
関ヶ原の戦いの結果、西軍に属していた赤松広秀は敗北し、その後、東軍に寝返りましたが、鳥取城攻めの際の城下焼き討ちを理由に徳川家康により切腹を命じられました。
その結果として竹田城も廃城となり、以降、400年以上にわたりその美しい遺構が風化することなく今日に至っています。
石垣の修復(1971年〜1980年)
竹田城の石垣は、その歴史的価値を理解し、後世に伝えるために、昭和46年(1971年)から昭和55年(1980年)にかけて修復工事が行われました。
この工事により、石垣は約1,000m²にわたって修復され、城の景観が大きく改善されました。
国の史跡指定(1943年)
昭和18年(1943年)、竹田城跡はその歴史的、文化的価値が認められ、国の史跡に指定されました。
この指定により、竹田城跡は国によって保護されることになり、文化財としての価値が高く評価されました。
「日本100名城」選定
近年、竹田城はその美しさと歴史的意義から「日本100名城」に選定されました。この選定は、城の魅力を国内外に広く伝え、観光資源としての価値を高めることに貢献しています。
竹田城のエピソード・逸話
竹田城にまつわるエピソードや逸話は、この城が持つ歴史的な重要性を色濃く表しています。以下に、特に興味深いエピソードをいくつか紹介し、それぞれの背景や意味について詳しく解説します。
雲海に浮かぶ「天空の城」
竹田城は、特に秋から冬にかけて、その美しい石垣が雲海に浮かぶ様子から「天空の城」とも称されます。
この幻想的な景色は多くの観光客を魅了し、写真愛好家にとっても格好の被写体となっています。
この雲海は、気象条件が合致すると現れる自然現象であり、その神秘的な美しさが竹田城の魅力を一層高めています。
「東洋のマチュピチュ」との呼び名
竹田城はその壮大な石垣と山上に築かれた独特の構造から、「東洋のマチュピチュ」とも称されることがあります。
この比喩は、南米のインカ帝国が築いたマチュピチュの遺跡と竹田城とを結びつけ、両者が持つ歴史的な深さや自然との調和の美しさを強調しています。
生野銀山との関連
竹田城の歴史は、近くに位置する生野銀山と密接に関わっています。生野銀山は日本有数の銀の産出地であり、竹田城はこの銀山を抑えるための重要な拠点でした。
特に織田信長や豊臣秀吉の時代には、この地域の支配を巡って多くの合戦が行われ、竹田城の歴史も大きく動いたとされています。
赤松広秀の悲劇
赤松広秀は戦国時代末期に活躍した武将で、竹田城の最後の城主として知られています。彼の人生は、関ヶ原の戦いを経て、悲劇的な結末を迎えました。
元々は播磨龍野城主であった赤松広秀は、天正13年(1585年)に竹田城の城主となり、その後も竹田城の整備に力を入れました。彼の治世下で、城はさらに強固なものになり、現在残る石垣遺構の大部分は、彼が整備したとされています。
しかし、その後の関ヶ原の戦いで、広秀は運命の分岐点を迎えます。
当初、西軍に与していた広秀は、戦況の悪化を感じて東軍に寝返り、鳥取城攻めに参加しました。彼の行動は東軍に一定の貢献をし、鳥取城は落城。しかし、この攻めの際、城下町に大火を放ったとして非難を受けます。
最終的には、この城下町放火の責任を問われ、東軍の盟主であった徳川家康の命により、慶長5年(1600年)12月3日、鳥取の真教寺で切腹を命じられました。これにより、広秀の治世は終わりを告げ、竹田城も廃城となりました。
赤松広秀の最後は、関ヶ原の戦いの混乱の中で、生き残りをかけた選択がもたらした悲劇的なものでした。彼の死後、竹田城は廃城となり、その石垣だけが今も残る、彼の努力の証としてこの地に静かに佇んでいます。
竹田城の観光の見どころは?名所はどこ?
「竹田城」は、その神秘的な美しさから「天空の城」とも称され、数多くの観光客を魅了しています。以下に、竹田城とその周辺の主要な見どころや名所を紹介します。
竹田城跡の本丸と天守台
本丸は竹田城の最も高い場所にあり、ここからの眺めは息をのむほど美しいです。特に秋には雲海が広がり、まるで天空に浮かんでいるかのような幻想的な光景を楽しめます。
天守台は城の中心部で、かつては天守がそびえ立っていたとされます。現在は石垣が残り、当時の雄大さを偲ばせます。
北千畳・南千畳・花屋敷
これらは竹田城の三大曲輪(くるわ)で、それぞれ独自の特徴があります。北千畳は入口となる大手虎口が印象的で、南千畳からは天守台が一望できます。
花屋敷はその名の通り、昔は美しい庭園が広がっていたと言われています。
竹田城の石垣
竹田城の石垣は、穴太積みと呼ばれる独特の技術で築かれています。歴史の重みを感じさせる石垣には、見る角度によって異なる表情があり、訪れる人々を魅了します。
立雲峡(りゅううんきょう)
竹田城から車で約30分の場所にある立雲峡は、秋の雲海シーズンに特に人気のスポットです。ここから竹田城を望むと、まるで空に浮かぶ城のような幻想的な光景が広がります。雲海の条件が揃った日には、まさに絶景を楽しむことができます。
生野銀山(いくのぎんざん)
竹田城から車で約1時間の場所に位置する生野銀山は、日本の銀産業の歴史を感じることができるスポットです。
実際に坑道を歩きながら、当時の採掘の様子を体験できます。また、周囲の自然も美しく、ハイキングや散策にも最適です。
法樹寺(ほうじゅじ)
竹田城の近くにある法樹寺は、赤松広秀の墓があることで知られています。白壁には鉄砲狭間があり、歴史の重みを感じることができる場所です。
また、寺の周辺は古い街道が残っており、歩いているだけで当時にタイムスリップしたような気分になります。
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