吉田郡山城はどこにある?エピソードや歴代城主・観光できるかを紹介!

吉田郡山城は、豪忍な自然の要塞として知られ、戦国時代を生き抜いた毛利氏の知恵と勇気が息づく場所です。

可愛川と多治比川の間に広がる吉田盆地の北にそびえるこの城は、見る者を圧倒します。その壮大な規模と複雑な構造は、当時の城郭技術の粋を集めたものであり、多くの武将たちの野望と夢が交錯した歴史の舞台でもありました。

毛利元就の威光を今に伝える吉田郡山城。ここでは、この壮大な城の歴史と魅力について、さらに深く掘り下げていきましょう。

目次

吉田郡山城はどこにある?建てたのはだれ?

所在地広島県安芸高田市吉田町吉田
アクセス広島バスセンターから吉田出張所行きで約1時間30分「安芸高田市役所前」下車、徒歩約5分
電話番号0826-42-0070(安芸高田市歴史民俗博物館)
営業時間9:00~17:00(安芸高田市歴史民俗博物館の時間)
休業日月曜日(月曜が祝日の場合は翌日)、祝日の翌日(安芸高田市歴史民俗博物館の休館日)
築城した人不明(毛利氏によって拡張された)
築城した年不明(15世紀中頃に存在していた)
主な歴代城主毛利元就、毛利隆元、毛利輝元など
天守閣の有無不明(存在した可能性があるが詳細は不明)
観覧料無料(郡山城跡自体には観覧料はかからない)

吉田郡山城は、広島県安芸高田市に存在した壮大な城郭です。この城は、戦国時代の大名・毛利氏によって居城とされ、その後、広島城へ本拠を移すまで毛利一族の要塞でした。

城は吉田盆地を見渡す位置にあり、郡山全山にわたる広大な範囲に築かれています。城郭の構造は複雑で、270以上の曲輪が放射状に配置されており、城域部分の総面積は7万m²に及びます。

築城時期ははっきりしませんが、郡山城が最も発展したのは、毛利元就の時代でした。彼は、毛利氏の勢力を大いに拡大し、この城を中心として様々な戦略を展開しました。

城内には主に毛利元就の孫である毛利輝元が生活しており、城としての機能だけでなく、平時には居館としても利用されていたことが推測されます。

現在、吉田郡山城は国の史跡に指定されており、多くの観光客が訪れています。アクセス方法は、広島バスセンターから吉田出張所行きのバスに乗り、安芸高田市役所前で下車し、徒歩約5分です。自動車の場合は、中国自動車道「高田インター」から20分、JRを利用する場合は芸備線向原駅からタクシーで約20分です。

訪れた人々は、その広大さや歴史的価値に感動しており、訪問者のレビューには「見どころが多く全く退屈しない」といった肯定的な声が多く寄せられています。

歴史に興味がある方はもちろん、自然を愛する方にもおすすめのスポットです。遺構を巡りながら、戦国時代の歴史の息吹を感じ取ることができるでしょう。

吉田郡山城の歴史とは?どんな出来事があった?

吉田郡山城は、戦国時代の大名である毛利元就とその一族の居城であり、多くの歴史的出来事が起こった場所です。以下に、その主な出来事と詳細な解説を列挙します。

これらの出来事を通じて、吉田郡山城は毛利氏の歴史だけでなく、日本の戦国時代の歴史を物語る重要な場所として認識されています。

現在も多くの人々がこの地を訪れ、かつての武将たちの足跡を辿っています。歴史の舞台としてだけでなく、美しい自然に囲まれたこの場所は、今もなお多くの人々に愛されています。

吉田郡山城の築城

吉田郡山城は、建武3年(1336年)に毛利時親によって始められました。当初は小規模ながら、その後毛利元就の時代になると、大規模な改築が行われました。

元就はこの地を本拠とし、毛利氏の勢力を中国地方全域に広げる基盤としました。元就の改築により、城は広大な規模に拡張され、多くの曲輪や堀が追加されるなど、当時の戦国大名の城としては非常に堅固な構造となりました。

天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦い

天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦いは、戦国時代に安芸国(現在の広島県)で起こった重要な合戦です。この戦いは、毛利氏と尼子氏の間で繰り広げられました。

毛利氏は安芸国の国人領主から力を拡大していた一族で、当時の当主は毛利元就でした。

一方、尼子氏は出雲国(現在の島根県東部)に基盤を持つ強力な大名で、尼子詮久(後の尼子晴久)が当主でした。尼子氏は出雲国を中心に、周囲の国々にもその勢力を拡大しており、安芸国にも影響力を及ぼしていました。

この合戦の発端は、尼子氏が毛利氏の拠点である吉田郡山城を攻略しようとしたことにあります。

尼子氏は多数の兵を動員し、吉田郡山城への攻撃を開始しました。城は可愛川(江の川)と多治比川に挟まれた戦略的に重要な位置にあり、山城であるために防御が固く、攻略は容易ではありませんでした。

毛利元就は家臣や地元の農民を動員して城を守り、尼子氏の大軍に対抗しました。戦いは熾烈を極め、毛利氏は数で劣るものの、地の利と固い防御によって抵抗を続けました。

毛利氏は農民男女を含む約8000人が籠城し、尼子氏の大軍を撃退したと伝えられています。この戦いで毛利氏は城を守り抜き、その名声を高めました。

天文9年の吉田郡山城の戦いは、毛利氏の戦国大名としての地位を確立する重要な転機となり、毛利元就の戦略とリーダーシップが評価されるきっかけとなりました。

天正19年(1591年)の移転

毛利輝元が広島城を新たな本拠地と定め、吉田郡山城から移転しました。これにより、城の役割は大きく変化し、毛利氏の中心が移動することとなりました。

しかし、その後も城は一定の管理が行われ、郡山城は広島城の補助的な役割を果たし続けました。

近代における保存と修復

明治時代以降、吉田郡山城は国の史跡として指定され、保存・修復作業が進められてきました。

特に、歴史的価値の高い構造物や遺構に対する研究が行われ、城は歴史教育の場としても重要な役割を担っています。現在では、多くの観光客がその歴史を学びに訪れています。

吉田郡山城は今はどうなってる?観光の見どころは?

吉田郡山城は現在、その壮大な遺構が広島県安芸高田市に残されており、歴史的な名所として観光客に開放されています。

特に、毛利元就にまつわるエピソードや城の構造が興味を引き、多くの訪問者がその足跡をたどります。以下に、その代表的な名所を紹介します。

これらの名所を訪れることで、郡山城の歴史を肌で感じることができるでしょう。豊かな自然と歴史が織りなす景観は、訪れる人々にとって忘れられない思い出となるはずですよ。

本丸跡

郡山城の最も高い位置にある本丸跡は、かつて城主が居住し、城の中心でした。現在でも、その広大な敷地と周囲に残る石垣から、かつての城の規模を偲ぶことができます。

本丸からは吉田盆地を一望でき、訪れる人々に豊かな自然と歴史の美しさを同時に感じさせます。

毛利元就墓所

毛利元就とその一族の墓所が郡山城の近くにあります。元就の墓所は特に、多くの歴史ファンにとって訪れる価値のある場所であり、毛利氏の歴史を今に伝える貴重な遺構です。

自然に囲まれた静かな場所で、故人を偲ぶには最適な環境が整っています。

安芸高田市歴史民俗博物館

歴史民俗博物館では、郡山城の歴史や毛利氏に関連する資料が数多く展示されています。

郡山城を訪れる際には、ここで歴史の背景知識を深めることができ、城跡をより深く理解する助けになります。また、周辺の自然と調和した建築も見どころの一つです。

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