厳島の合戦とは?起きた原因や戦いの経緯・誰が戦ったのかを解説!

厳島の合戦は、1555年に瀬戸内海に浮かぶ厳島(現在の宮島)で毛利元就と陶晴賢の間で繰り広げられました。この戦いは、その戦術的な巧妙さと戦国の世を象徴するエピソードで知られています。

毛利氏は数で劣りながらも、巧みな策略と勇敢な戦いぶりで勝利を収め、名を馳せました。

この記事では、この歴史的な合戦の背景、経過、そしてその後の影響について深堀りします。厳島の合戦の全容を理解することで、戦国時代の複雑な人間模様と戦略的な思考が見えてくるでしょう。

目次

厳島の合戦とは?戦いの場所と起きた経緯

「厳島の戦い」は、1555年(天文24年)、広島県の宮島(現在の厳島)で繰り広げられた壮絶な戦闘であり、日本三大奇襲戦の一つに数えられています。この合戦は、毛利元就と陶晴賢の間で行われ、戦国時代の勢力図を大きく塗り替えるきっかけとなりました。

戦いの発端は、大内氏の内紛と毛利氏の台頭にあります。1554年(天文23年)3月、石見三本松城の吉見正頼が陶晴賢を討つために挙兵しました。

この動きに対し、陶晴賢は軍を率いて三本松城を包囲し、毛利元就に参陣を要請しましたが、毛利元就はこれを無視し続けました。この時点で毛利元就は、大内家(陶晴賢)との関係を完全に断ち切る決意を固めていました。

毛利元就は桜尾城を攻略し、厳島を占領して安芸国を掌握しました。この動きは、陶晴賢にとって大きな脅威となります。陶氏と吉見氏の三本松城での戦いが続いていたため、毛利に主力を注ぐことができなかった陶晴賢は、毛利討伐に専念する決意を固めました。

一方、毛利元就は正面からの戦闘では不利であると考え、謀略によって陶氏の戦力を削ぐことを選択します。

まず、陶方の重臣・江良房栄に寝返るよう働きかけますが、条件が折り合わず断られます。そこで、毛利元就は「江良房栄が謀反を企んでいる」という噂を流し、陶晴賢を疑心暗鬼に陥らせます。

さらに、江良房栄の筆跡を偽造した書状を作成し、陶晴賢の疑念を深めました。これにより、陶晴賢は江良房栄を暗殺するという誤った判断を下し、陶軍内部の不和を生じさせます。

厳島の合戦ではどう戦った?激突の流れ

1555年(天文24年)9月21日、厳島の戦いが始まりました。場所は宮島、現在の広島県に位置する、自然の美しさで知られる神聖な地です。

陶晴賢は、周防・長門からの軍勢を集め、総勢2万の大軍で厳島に上陸しました。彼らは玖珂郡に集結し、500艘の船団で出航。厳島の沖で夜を越え、翌朝に上陸を開始しました。上陸後、陶軍は宮尾城を攻撃し、毛利軍を圧倒しようとしました。

一方、毛利元就は、緻密な戦略を練っていました。彼は厳島の地形を巧みに利用し、奇襲攻撃を計画しました。

9月24日、毛利元就は家臣を集め、急いで行動に出ました。彼らは草津城から出陣し、厳島に向かいました。その軍勢は総勢4千で、130艘の船団を構成していました。

9月26日、毛利元就は、救援として家臣・熊谷信直を60艘の船で宮尾城に送りました。その後、さらなる支援として因島村上水軍にも援軍を要請しました。

9月30日、毛利軍は渡海を決行しました。毛利元就、毛利隆元、吉川元春らの毛利本隊が第一軍、小早川隆景率いる毛利水軍が第二軍、そして因島村上水軍を中心とする水軍が第三軍とされました。彼らは夜の暗闇に紛れて、敵に気づかれずに上陸しました。

10月1日、夜明けと同時に毛利軍は奇襲攻撃を開始しました。博奕尾を越えた毛利本隊は、陶軍本隊の背後から一斉に攻撃。それと同時に、宮尾城の籠城兵も戦闘に参加しました。沖合では、因島村上水軍が陶水軍の船を焼き払い始め、陶軍は大混乱に陥りました。

陶晴賢は逃げ場を失い、ついに最後の地、大江浦にたどり着きました。しかし、そこで彼は自刃し、この戦いは毛利元就の圧勝で幕を閉じました。

厳島の合戦の戦後処理と後世での評価

厳島の合戦後、毛利元就は戦場となった厳島に対して、非常に敬意を払った処置を施しました。厳島は、厳島神社を中心とした神聖な地であり、戦いによる穢れを清めるため、彼は特別な配慮を行いました。

戦で亡くなった者たちは対岸の大野に運ばれ、厳島での戦いの跡はすべて洗い流されました。さらに、合戦翌日から7日間にわたって神楽を奉納し、万部読経を行って死者の霊を慰めたとされています。

このような毛利元就の行動は、厳島神社への深い敬意と信仰心を示しています。彼の心遣いは、戦国時代という荒れ狂う時代背景の中でも、信仰と伝統を重んじる日本人の精神を色濃く反映していると言えるでしょう。

後世での厳島の合戦の評価は非常に高いです。この戦いは、毛利元就の知略と勇気、戦略の妙を示すものであり、戦国時代の三大奇襲戦の一つとして数えられています。

毛利元就は、この戦いを通じて西国の覇者としての地位を確固たるものにしました。

彼の戦略は、多数の敵軍に対して劣勢ながらも勝利を収めた点で特に評価され、戦国時代の英雄として今も語り継がれています。

厳島の合戦が起きた場所や関連する場所へのアクセス方法

宮島(厳島)

厳島の合戦の主な舞台です。広島市内からJR山陽本線で宮島口駅まで行き、そこからフェリーに乗ることでアクセスできます。厳島神社を始め、歴史を感じさせるスポットが数多くあります。

厳島神社

厳島の戦いの後、毛利元就が社殿を再建した場所です。宮島のシンボルであり、世界遺産にも登録されています。宮島口からフェリーで約10分、厳島神社までは徒歩でもすぐに到着します。

草津城(毛利水軍の基地)

毛利元就が厳島への出陣時に使用した城です。現在は城跡が残っており、広島市内から車や公共交通機関で訪れることができます。歴史を感じながらの散策が楽しめます。

地御前

毛利元就が厳島への攻撃を開始した出発点です。自然豊かな地域で、現在でも美しい景色を楽しむことができます。地元の公共交通機関を利用して訪れることが可能です。

宮尾城跡

毛利元就が陶晴賢の軍を迎撃するために利用した場所です。宮島の中でも比較的高い位置にあり、散策しながら訪れることができます。島内は徒歩かレンタル自転車で移動するのがおすすめです。厳島神社からも遠くなく、散策には最適な場所です。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次