島津義弘とはどんな人物?したことやエピソード・性格・人柄を解説!

島津義弘は、九州の大地を駆け巡った猛将がいました。幼少期から戦の世界に身を投じ、九州を統一するまでに至った彼の歩みは、今も多くの人々に語り継がれています。

義弘はただの猛将ではありませんでした。彼の人生には、戦場での勇猛さだけでなく、文化人としての一面や、部下思いの人柄も秘められていました。

この記事では、義弘の輝かしい業績と、彼が残した数々の逸話を深堀りし、その生涯を今に伝えます。島津義弘という人物がどのような存在であったのか、その全貌に迫っていきましょう。

目次

島津義弘の出身地や生まれ年は?

戦国時代、九州地方を舞台に活躍した島津義弘は、天文4年(1535年)に薩摩国の伊作城で生を受けました。彼は島津貴久の次男として誕生し、兄である義久の下、島津家の発展に大きく貢献しました。

義弘は若い頃から勇猛で知られ、初陣は19歳の時に迎えました。彼の武勇は数多の戦場で光り、島津家の領土拡大に不可欠な役割を果たしました。特に、九州地方の統一や朝鮮出兵では、その指揮能力と戦略が際立っていました。

しかし、義弘の偉業は武勇だけに留まりません。学問や文化にも通じており、茶道では千利休から直接指南を受けたと伝えられています。また、産業振興にも力を注ぎ、朝鮮出兵の際には陶工を招聘し、後の薩摩焼の基礎を築きました。

人柄においても義弘は高く評価されています。彼の人情味あふれる逸話は多く、特に冬の厳しい朝鮮で、身分を問わず兵士たちと寝食を共にし、凍死者を一人も出さなかったというエピソードは有名です。

義弘の生涯は85年に及び、その死後、心から慕う家臣13名が後を追って殉死するほど、人々に愛された人物でした。彼の武勇と人柄は、今も多くの人々に語り継がれ、戦国時代を代表する武将としてその名を刻んでいます。

島津義弘の人生とは?やったことや人となり

島津義弘の戦場での活躍、文化人としての側面、そして人柄に焦点を当て、彼の生涯を深く掘り下げます。

島津義弘の足跡を追いながら、彼がなぜ多くの人々に愛され、記憶され続けているのかを探ります。

幼少期から九州制圧戦まで

島津義弘は、戦国時代に薩摩国(現在の鹿児島県)を治めた名門・島津家の中心人物です。

義弘の幼少期は、内乱の絶えない時代でした。父や兄と共に、薩摩の一部だけを治めていた島津家は、力をつけて他の勢力との戦いに明け暮れていました。この時代の経験が、義弘の武将としての基礎を築き上げたと言えるでしょう。

特に祖父・忠良の影響は大きく、彼の慈悲深さや教育に対する熱心さは、義弘の性格形成に影響を与えました。1554年、義弘は19歳で初陣を飾ります。場所は現在の姶良市、西大隅の戦いでした。この戦いは義弘にとって大きな転機となり、島津家の将としての地位を確立するきっかけにもなりました。

若き日の義弘は、大胆不敵で果敢な戦いぶりを見せました。岩剣城の戦いでは、敵を前にしても決して足を止めず、数千の強敵を打ち破ったとされています。この活躍は、彼の名声を高め、島津家の戦力を大きく支えることになりました。

その後も、義弘は九州の統一を目指し、激しい戦いを繰り広げました。木崎原の戦いでは、わずか300の兵で3000の伊東軍を打ち破り、その戦術の巧みさと勇気で多くの人々を驚かせました。

この戦いでは、島津家独自の「釣り野伏せ」という戦法を駆使し、数の劣る中でも敵を打ち破る知略を見せつけたのです。

豊臣秀吉の九州制圧から朝鮮出兵まで

豊臣秀吉の九州征伐は、島津義弘にとって大きな転機でした。天正15年(1587年)、秀吉は大軍を率いて九州に進軍し、島津家はその圧倒的な力の前に立ちはだかりました。

この時、義弘は勇猛に戦い、多くの戦功を挙げたものの、結局は秀吉の軍勢の前に敗北を認めざるを得ませんでした。

しかし、義弘の勇敢な戦いぶりは秀吉に評価され、彼は島津家の領地の一部を安堵され、秀吉の下で豊臣姓を名乗ることを許されました。

その後、義弘は文禄の役(1592年)と慶長の役(1597年)において、秀吉の朝鮮出兵に従軍しました。この時、義弘は再びその軍事的才能を発揮し、多くの戦功を挙げました。

特に慶長の役では、泗川の戦いで7000の島津軍が20万とも伝えられる明・朝鮮連合軍を破るという大勝利を収めました。この戦いでは、義弘の戦術的な見識と勇気が光り、その名は不動のものとなりました。

このように、義弘は武将としての名誉と評価を不動のものとし、秀吉にも重用される存在でした。

関ヶ原の戦いと戦後処理

1600年、日本は東軍と西軍に分かれての決戦が迫っていました。義弘は西軍に属していましたが、それは彼の真意とは異なるものでした。

実際、義弘は徳川家康との親交があり、東軍に付く意向だったと言われています。しかし、石田三成が主導する西軍の策略により、義弘は西軍に属することとなりました。

関ヶ原の戦いが始まると、義弘は最初から積極的に戦に参加しませんでした。これは、彼が西軍の本拠地である大垣城から遠く離れた位置に配置され、戦況を静観することを余儀なくされたためです。

しかし、戦況が西軍に不利になり始めた時、義弘はその真価を発揮しました。西軍の敗退が決定的になると、義弘は生存を最優先に考え、敵中突破、通称「島津の退き口」を敢行したのです。

これは、義弘が率いる部隊が敵陣を突破し、一路薩摩へと退却を図る作戦です。敵に囲まれながらも、義弘は冷静に部隊を指揮し、その卓越した戦術と武勇によって、多くの敵を撃退し、見事に薩摩へと生還を果たしました。

戦後、島津家は敵方であったにもかかわらず、徳川家康からその勇気と忠義を認められ、所領を安堵されました。義弘のこの行動は、後に多くの人々に語り継がれ、戦国時代の武将の中でも特に勇猛果敢な人物として評価されています。

このように、島津義弘は関ヶ原の戦いにおいて、数々の逆境に直面しながらも、その卓越した戦術と冷静な判断力で、多くの人々を驚かせ、後世に名を残す活躍を見せました。

島津義弘の最期|何歳で死んだ?

関ヶ原の戦い後も、義弘はその晩年を薩摩国で過ごし、領地の安定と発展に尽力しました。

彼は農業振興、植林、養蜂など多岐にわたる分野での事業を推進し、地域の繁栄に貢献しました。また、朝鮮から招いた陶工たちと共に、薩摩焼の基盤を築きました。

元和5年(1619年)、85歳という長い生涯の末、島津義弘は逝去しました。彼がこの世を去ったとき、彼を心から慕う家臣たち13人が殉死を選んだと伝えられています。

これは、主君への深い忠誠と尊敬の表れであり、義弘が人々からいかに愛され、尊敬されていたかを物語っています。

義弘の生涯を振り返ると、彼はただの武将ではなく、文化人としても優れていたことがわかります。

彼は茶道にも通じ、産業振興にも力を入れるなど、多方面にわたりその才能を発揮しました。そのため、彼は武勇だけでなく、文化や経済面でも人々に大きな影響を与えました。

島津義弘は、自らの生き方で周囲に勇気と希望を与え、後世に語り継がれるべき多くの価値ある教訓を残しました。彼の存在は、戦国時代という厳しい時代を生き抜いた数多くの武将の中でも、特に輝かしいものです。

島津義弘の逸話・エピソードまとめ

島津義弘の生涯は、多くの逸話やエピソードで彩られています。以下にその一部を紹介します。

初陣の成功

天文23年(1554年)、義弘はわずか19歳で初陣を迎えました。大隅岩剣城攻めでは、断崖絶壁に囲まれたこの難攻不落の城を、義弘の英断と勇気で見事落としました。

この戦いでの義弘の勇猛さは、その後の彼の戦い方に大きな影響を与えたと言われています。

釣り野伏せの成功

義弘は、釣り野伏せという戦法で名を馳せました。敵を囮にして誘い込み、伏兵で包囲するこの戦法は、その計算された戦略で数々の戦いで成功を収め、義弘の戦術的な才能を物語っています。

茶道における才覚

武将であると同時に、義弘は茶道にも優れた才能を持っていました。千利休から直接指南を受け、その技術は豊臣秀吉にも認められ、主賓として招かれるほどでした。この文化的な側面もまた、義弘の多才な人柄を表しています。

朝鮮出兵時の慈悲

島津義弘は、朝鮮出兵中に見せた配慮が記録されています。厳しい冬の中、彼の率いる部隊では凍死者が出ませんでした。

これは、義弘が身分を問わず全員が暖を取ることを推奨し、自らも兵士たちと同じく寝食を共にしていたためです。

毎晩、陣中を見回り、火が不足していないか常に気を配っていたと言います。この行動は、加藤清正にも感心されたと伝えられています。

薩摩焼の発展への貢献

文化人としての一面も持ち合わせていた義弘は、朝鮮出兵の際に陶工を召し抱え、後の薩摩焼に大きな影響を与えました。

その技術と文化の導入は、薩摩藩の産業発展に大きく寄与し、経済的な繁栄をもたらしました。

家臣への深い配慮

義弘は家臣とその家族に対しても深い配慮を示しました。家臣の子どもが生まれると、彼はその子どもを自らの膝に抱き、「子は宝なり」と祝福していたと伝えられています。

このエピソードは、彼の人間性の深さと、領民や部下からの深い信頼と尊敬を集める理由を物語っています。

島津義弘と関わりのある場所まとめ

岩剣城(いわつるぎじょう)

島津義弘が初陣を飾った場所で、今の鹿児島県姶良市にあります。この地は、その険しい地形から天然の要塞とされ、義弘はここで初めての軍功をあげました。戦場となった岩剣城は地元では「剣の平」と呼ばれ、その歴史を今に伝える重要な場所です。

飯野城(いいのじょう)

今の宮崎県えびの市にある飯野城は、義弘が真幸院の領主となった後、居城としました。この城は、九州南部での島津氏の勢力拡大において重要な役割を果たし、義弘の統治下で軍事・政治の中心地となりました。

加治木屋形(かじきやかた)

義弘が晩年を過ごした場所で、現在の鹿児島県姶良市加治木町に位置します。ここで義弘は農業振興や窯業の発展に力を注ぎ、地域の経済発展に貢献しました。加治木屋形は、義弘の政治的・文化的影響力が色濃く残る場所です。

福昌寺跡(ふくしょうじあと)

義弘の墓所がある鹿児島市の寺院です。義弘が亡くなった後、家臣たちが彼を深く慕い、殉死したという話も残されています。福昌寺は、義弘とその家臣たちの強い絆を今に伝える場所として、多くの人々に敬愛されています。

精矛(くわしほこ)神社

義弘を祀る神社で、加治木町日木山にあります。この神社は、義弘の三百年祭の際に現在の地に建立されました。

義弘の武勇と慈悲深い人柄を今に伝え、地元住民からは郷土の英雄として崇敬されています。また、義弘と関わりのある様々な行事や文化がここで受け継がれています。

飫肥城(宮崎県日南市)

義弘が飫肥領主となった後、彼の主要な拠点となりました。日向国の戦略的な要地であるこの城は、九州統一の過程で重要な役割を果たしました。特に、伊東氏に対抗するための拠点として機能し、島津家の勢力拡大に寄与しました。

木崎原の戦場

伊東氏との対立がピークに達した際、義弘が指揮を執った木崎原の戦いの地です。この戦いで義弘はわずか300の兵で3000の敵軍を打ち破るという大勝利を収めました。この戦いは、島津家の戦術と義弘の指導力の高さを示すエピソードとして知られています。

泗川の戦場

朝鮮出兵時、義弘が明・朝鮮連合軍を相手に大勝利を収めた地です。7000の島津軍が20万の大軍を相手に戦い、義弘の指導のもとで奇襲や伏兵戦術を駆使し、敵軍を混乱させて勝利を収めました。

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