伊達政宗とはどんな人物?何をした人なのかエピソードや性格・人柄を解説!

奥羽の覇者として名を馳せた伊達政宗は、その卓越した戦略と圧倒的なカリスマ性で歴史にその名を刻みました。

独眼竜とも称される彼の人生は、単なる戦国武将の物語を超え、政治、外交、文化においても類い稀な才能を発揮しました。

この記事では、伊達政宗の生涯とその遺した功績を辿りながら、彼が直面した時代の波乱と、その中で如何にして彼が自らの運命を切り開いていったのかを解き明かしていきます。

伊達政宗の生き様を通じて、その深遠な人物像に触れていきましょう。

目次

伊達政宗の出身地や生まれ年は?

伊達政宗は、永禄10年8月3日(1567年9月5日)、出羽国米沢城で生まれました。父は伊達家16代当主の伊達輝宗、母は最上義守の娘・義姫です。幼名は梵天丸といい、生誕地は米沢城とされていますが、館山城とする説もあります。

11歳で元服し、伊達藤次郎政宗と名付けられました。この名前は、祖先である室町時代の伊達家中興の祖・大膳大夫政宗にちなんで名づけられたものです。

幼少期から才覚を発揮し、18歳で家督を継ぎ、仙台藩の基盤を固めていきました。政宗は、その勢力拡大により、南奥州の大半を掌握し、仙台藩を最大領土にまで成長させました。

「独眼竜」としても知られる政宗ですが、これは彼の隻眼に由来します。隻眼でありながらも、その鋭い洞察力と冷静な判断力で、多くの戦いに勝利しました。

政宗は、寛永11年に近江に5000石を加増された後、寛永13年5月24日、70歳で亡くなりました。その治世は52年に及び、仙台藩を安定させ、繁栄させる基盤を築き上げました。

後世、政宗はその才能と実績で高く評価されており、今なお多くの人々に記憶され、敬われています。

伊達政宗の人生とは?やったことや人となり

政宗の人生は、数々の試練と困難に満ちていましたが、彼はそれらを巧みな戦略と外交で乗り越え、仙台藩を繁栄させる基盤を築き上げました。その手腕と人生は、後世の人々に強い印象を残し、今日でも多くの人々に語り継がれています

家督相続から父の死まで

15歳のとき、相馬家との戦で初陣を飾り、勇敢な戦いぶりで伊達家の勝利に大いに貢献しました。

天正12年(1584年)、政宗は父・輝宗の隠居に伴い、わずか18歳で伊達家第17代当主となります。この時、政宗は若年を理由に家督相続を辞退しようとしましたが、重臣たちの勧めを受けて家督を継ぎました。

若くして家督を継ぐことには、伊達家内の確執も背景にありましたが、輝宗の隠居と共に、伊達家第17代当主としての責務を担い始めます。

天正13年(1585年)、輝宗は畠山義継による策略によって突如として拉致されるという事件が発生しました。

この出来事は、政宗にとってただちに対応を迫られる危機的状況でした。当時、政宗は鷹狩りに出かけていたとされていますが、父が拉致されたとの知らせを受け取ると、すぐに戻って救出に向かいました。

政宗が率いる伊達軍は、輝宗と共に畠山義継も含めて、拉致犯一味を一人残らず打倒する決意でした。政宗は迅速に行動し、鉄砲を用いて義継を攻撃しましたが、この戦いで悲しいことに輝宗もまた命を落とすこととなりました。

この出来事は後に「二本松城の事件」として知られるようになり、伊達家にとって大きな悲劇となりました。

この事件に対する評価は複雑で、一部には政宗自らが父殺しの陰謀を企てたとする説もあります。しかし、実際にはこのような見解には確固たる証拠はなく、政宗が父を救出しようとしたが、不幸にも戦闘の中で輝宗が死亡したというのが一般的な見解です。

人取橋の戦いから摺上原の戦い

父・輝宗の突然の死後、伊達政宗は、二本松城に対する報復として、政宗は伊達軍を率いて南奥州諸侯連合軍と安達郡人取橋で対峙しました。(人取橋の戦い)

この戦いで伊達軍は数に劣る中、政宗の果敢な戦略により勝利を収めました。この勝利は政宗の武将としての名声を確固たるものにし、伊達家の勢力を大きく拡大させるきっかけとなりました。

人取橋の戦いの後、伊達政宗は蘆名氏や他の地域の大名との関係を再構築し、自身の地位を安定させるための外交を行いました。この期間中、政宗は周囲の大名との間で多くの和議を進め、一時的に地域の平和を回復させました。

また、蘆名亀若丸の死後、佐竹義重が自分の子を蘆名氏の当主に擁立しようとしたことに対し、政宗はこれを伊達氏排除の意思とみなし、佐竹氏との全面対決を決意しました。これが摺上原の戦いに至る直接的な原因となりました。

天正17年(1589年)に起きた摺上原の戦いは伊達政宗にとって重要な戦いであり、彼の奥羽地方における支配を不動のものにした戦いです。

この戦いでは、政宗が蘆名氏と激突し、蘆名氏を打ち破りました。勝利により、政宗は会津地方を手中に収め、その勢力をさらに拡大しました。この戦いは政宗の戦略と戦術の優れた一面を示すとともに、奥羽地方における彼の影響力を確固たるものにしました。

小田原の遅参と関ヶ原の戦い

摺上原の戦いでの圧倒的な勝利の後、伊達政宗は奥羽の支配者としての地位を確固たるものにしました。しかし、その後も政宗の人生は波乱に富んでいました。

摺上原の戦い後、政宗は豊臣秀吉による天下統一の動きに直面しました。秀吉は天下統一を目指して全国の大名に圧力をかけており、政宗もその例外ではありませんでした。

秀吉が北条氏を滅ぼすために小田原征伐を開始すると、政宗もこれに参陣することを決意しました。しかし、途中で家内の事情により遅延し、遅参してしまいます。

小田原に到着した政宗は、秀吉に対して死を覚悟した態度で臨みました。白装束で現れた政宗の姿は、秀吉に強い印象を与え、彼の命は救われました。しかし、この遅参の代償として、政宗は会津地方などの広大な領土を失い、大幅な減封を受けることとなりました。

その後、天正19年には葛西大崎一揆が発生し、政宗はこの鎮圧にあたりました。この一揆の背後に政宗の影があるとされる証拠が秀吉に提出され、政宗は京都に呼び出されて厳しい詰問を受けました。しかし、政宗は巧みな弁舌で自身の無実を主張し、この危機を乗り越えます。

秀吉の死後、政宗は徳川家康に接近し、慶長5年の関ヶ原の戦いでは徳川方につきました。

この戦いで、政宗は上杉景勝討伐に参加し、活躍を見せましたが、戦後の恩賞として領土の大幅な加増は得られませんでした。これは、政宗が戦中に一揆を扇動して領土拡大を図ったことを家康に見破られたからです。

関ヶ原の戦いの後、政宗は仙台藩主となり、その治世は安定していました。仙台藩としての基盤を固めつつ、藩の発展と繁栄に努めました。この時期、政宗は仙台城の築城や城下町の整備にも力を入れ、仙台藩を東北地方の重要な拠点に育て上げました。

関ヶ原の戦いから大阪の陣まで

関ヶ原の戦いの終結後、伊達政宗は仙台藩の基盤を固め、東北地方における強大な力を保持する藩主としてその地位を確立しました。しかし、彼の人生にはまだ多くの試練が待ち受けていました。

関ヶ原の戦いの後、政宗は自らの領地において仙台城の建設を始めます。仙台城は、その後の仙台藩の政治・文化の中心地となり、政宗の力の象徴でありました。

城の建設と同時に、政宗は城下町の整備にも力を入れ、商工業の振興にも努めました。このようにして政宗は、仙台藩を東北地方の政治・経済の中心地に育て上げていきます。

また、政宗は外交面でも活躍し、特に西洋との関わりを深めました。慶長18年(1613年)、政宗は国際的な外交使節として、慶長遣欧使節を派遣します。

使節団は、政宗の家臣である支倉常長を団長として、スペインやローマを訪れ、当時の世界強国であったスペイン王国やローマ教皇との交流を試みました。

この外交使節は、日本人がヨーロッパへ政治外交使節を派遣した最初の例であり、政宗の国際的な視野の広さを示す出来事でした。

しかし、政宗の外交政策は幕府のキリスト教弾圧政策と相容れず、使節の成果は限定的でした。それにもかかわらず、政宗は藩内の経済発展に力を入れ、農業や手工業の振興、新田の開発などに努めました。

特に、仙台藩から江戸に米を出荷するルートの確立は、藩の経済基盤を強化する上で大きな成果でした。

慶長19年(1614年)に始まった大坂の陣では、政宗は徳川家康に忠誠を示し、大和口方面の軍として参戦しました。

政宗は大坂冬の陣で外堀の埋め立て工事を行うなど、積極的に戦闘に参加しました。また、大坂夏の陣では、激しい戦闘を展開し、その勇猛さを示しました。

政宗は、この戦いで示された彼の戦術の見事さと、部下に対する配慮から多くの賞賛を受けました。それでも、政宗は戦の最中に起こった一部の誤解や紛争により、一部の家康の将軍たちと緊張関係にあったと言われています。

伊達政宗の最期|何歳で死んだ?

大阪の陣後、政宗は仙台藩の発展に尽力しました。藩内の経済と治安を安定させるために、新田開発や治水工事に取り組みました。

北上川、迫川、江合川の河川工事は、その代表例であり、これにより藩内の農業生産が大きく向上しました。

また、政宗は文化人としても知られており、奥羽地方の文化振興にも力を注ぎました。特に、松島の瑞巌寺や塩竈神社などの建築に関わり、地域の歴史や文化遺産の保存に貢献しました。

政宗の晩年は、仙台藩の内政に注力する時期でもありました。彼は藩の法令を整備し、藩政の基盤を強化するため、多くの政策を実行に移しました。また、家臣団との関係も深め、藩内の統制を固めることに成功しました。

1636年、政宗は仙台城の隠居所である若林屋敷に移り、晩年はそこで過ごしました。そこでは、狩りや茶会などを楽しみながら、穏やかな日々を過ごしました。

そして、1639年、仙台での長い治世の後、政宗はこの世を去りました。彼の死後、仙台藩は長い間、東北地方の安定と繁栄を保つ強固な基盤を築いたことで知られています。

伊達政宗の逸話・エピソードまとめ

伊達政宗は、その生涯において多くのエピソードが語り継がれています。その中からいくつかのエピソードを選び、解説を交えて紹介します。

独眼竜の異名

伊達政宗は、幼少期に天然痘にかかり、その後遺症で右目を失明しました。しかし、彼はこの障害を乗り越え、その鋭い洞察力と勇猛さで数々の戦を制しました。

政宗の一眼であることから「独眼竜」という異名が付けられました。この異名は、彼の武勇と知略を象徴するもので、今日でも多くの人々に覚えられています。

このエピソードは、身体的な障害をものともせず、偉大な成果を上げた政宗の強い意志と勇気を象徴しています。

伊達政宗の外交戦略:慶長遣欧使節

伊達政宗は、国内だけでなく国際的な視野も持ち合わせていました。1613年、彼は日本人初のヨーロッパ使節団として慶長遣欧使節を派遣しました。

この使節団は、新たな貿易ルートの確立と外交関係の構築を目的として、スペインやローマへ赴きました。しかし、この使節はキリスト教の弾圧により、大きな成果を上げることはできませんでした。

それでも、この試みは、伊達政宗の先進的な外交観と大胆な行動力を示すエピソードであり、その広い視野と外交に対する意欲が伺えます。

大坂の陣における徳川からの不信

大坂の陣において伊達政宗は徳川方として参戦しましたが、この時の彼の行動はいくつかの誤解や紛争を引き起こしました。特に有名なのは、大坂夏の陣における真田幸村(信繁)の部隊との戦いです。

大坂夏の陣で、伊達政宗は大和方面軍の一角を担い、真田幸村率いる部隊と対峙しました。この戦いで、伊達軍は一時的に優位に立ちながらも、最終的には真田軍の激しい抵抗に遭遇し、撤退を余儀なくされました。

また、伊達政宗はこの戦いにおいて、敵としても味方としても優れた戦略を見せたものの、水野勝成との間には意見の対立がありました。

政宗は兵糧や弾薬の不足を理由に、再攻撃を断りましたが、これが勝成の不興を買い、両者の間には緊張が走りました。この件は、政宗が周囲との協調を重視しつつも、自身の判断を信じる頑固さを持つ人物であったことを示しています。

伊達政宗と関わりのある場所まとめ

これらの場所は、伊達政宗の生涯や活動を知る上で非常に重要な場所です。

彼の歴史的足跡を辿ることで、戦国時代の動乱の中での政宗の生き様や、仙台藩の基礎を築いた功績を深く理解することができます。

米沢城(山形県米沢市)

米沢城は、伊達政宗が幼少期を過ごした城であり、彼の出生地です。戦国時代において伊達家の重要な拠点であり、政宗が成長してからもしばしば政治の中心地として機能しました。現在は城跡が公園として整備されており、政宗に関連する史料が展示されています。

岩出山城(宮城県大崎市)

岩出山城は、伊達政宗が天正年間に居城として使用した城です。政宗が実質的な権力を掌握し、広大な領地を治める基盤を築いた場所として知られています。その後、仙台藩の初代藩主となった政宗は、岩出山から仙台へと拠点を移しました。

仙台城(宮城県仙台市)

仙台城は、伊達政宗が築城し、伊達家の本拠地とした城です。政宗はここを拠点に政治を行い、またこの城から多くの武勇伝が生まれました。現在の仙台城跡は、政宗の銅像で有名で、その眺望の良さから「青葉城」とも呼ばれています。

松島(宮城県松島町)

松島は、伊達政宗が愛したとされる風光明媚な地域で、政宗が建立に関わった瑞巌寺や五大堂などがあります。政宗はこの地を訪れ、自然の美しさに魅了されたと伝えられています。松島は日本三景の一つとしても有名です。

瑞巌寺(宮城県松島町)

瑞巌寺は、伊達政宗が建立した寺院で、松島の象徴的な存在です。政宗の菩提寺として知られ、彼の死後は墓所ともなりました。豪華絢爛な本堂は政宗の権威と芸術への情熱を物語っています。

青葉山(宮城県仙台市)

青葉山は、仙台城のある山で、伊達政宗が城を築いた場所です。城跡からの眺望は絶景であり、政宗がこの地を選んだ理由を伺い知ることができます。現在は仙台市のシンボルとしても親しまれています。

黒川城(福島県喜多方市)

黒川城は、伊達政宗が会津を制圧した後に本拠地とした城です。その時伊達政宗がうたったのが「さんさ時雨」と伝えられています。

政宗はここから会津地方の支配を強化しました。現在、城跡は自然豊かな公園として整備されており、政宗の勢力範囲を広げた重要な場所として知られています。

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