第二次上田合戦とは?起きた原因や戦いの経緯・誰が戦ったのかを解説!

第二次上田合戦は、1600年に信州上田の地で繰り広げられた、真田昌幸と息子幸村(信繁)率いる真田軍と、徳川家康の息子である徳川秀忠率いる東軍との戦いです。

関ヶ原の戦いの前哨戦として位置づけられるこの合戦は、数において劣る真田軍が巧みな戦術と地の利を活かして大軍を相手に立ち向かった歴史的瞬間です。

しかし、真田軍の英雄的な抵抗にも関わらず、戦後、真田昌幸と幸村は配流の身となり、真田家の運命は大きく変わってしまいます。

激動の時代を駆け抜けた真田一族の知恵と勇気、そして第二次上田合戦が日本歴史に残した足跡を、詳細に掘り下げていきましょう。

目次

第二次上田合戦とは?戦いの場所と起きた経緯

第二次上田合戦は1600年、信濃国上田城を舞台に繰り広げられました。この戦いは、関ヶ原の戦いに大きく影響を与えたとされています。

徳川家康は、石田三成を討伐するため、西に向かう途中の事でした。一方、真田昌幸は、徳川家に属しながらも西軍に付く決断を下します。この大胆な選択には、真田家の存続を守るための計略が隠されていたのです。

戦いの発端は、徳川秀忠が中山道を西上し、真田昌幸の居城である上田城を討伐することに決めたことにあります。

昌幸は、息子たちとの協議の末、東軍には嫡男・信之を、西軍には次男・幸村と自身が属するという策を採ります。これは、どちらの軍が勝利しても真田家が生き残るための知恵だったのです。犬伏の別れと言われます。

1600年9月2日、秀忠率いる約3万8000人の徳川軍が小諸に到着し、昌幸に降伏を勧告しました。

当初、昌幸は従うかのような態度を見せますが、これは真田家に時間を稼ぐための策略でした。昌幸は、徳川軍との小競り合いを通じて、秀忠軍を上田城へと誘い込みます。この一連の駆け引きは、後の戦局に大きな影響を与えることになります。

第二次上田合戦の前哨戦は、真田昌幸の緻密な策略と、徳川秀忠の決断によって始まりました。

この戦いが、後に繰り広げられる関ヶ原の戦いの行方にも影響を及ぼすこととなります。信濃の地で繰り広げられたこの戦いは、歴史に大きな足跡を残し、後世に語り継がれる出来事となりました。

第二次上田合戦ではどう戦った?激突の流れ

戦いの幕開けは、真田昌幸が徳川方に属するふりをして秀忠軍との交渉に応じたことから始まります。しかし、これは昌幸の時間稼ぎの策であり、実際には徳川軍に対する挑発行動へと移行していきます。

昌幸は徳川軍の油断を誘うため、一度は幸村が守る戸石城を開城し、徳川軍に接収させるという大胆な行動に出ました。

戦いが本格化すると、昌幸は騎馬隊を率いて徳川軍と衝突しますが、敗走を装い、巧みに徳川軍を上田城内に誘い込みました。徳川軍が城内に侵入すると、昌幸の伏兵たちは一斉に攻撃を開始。徳川軍は大混乱に陥り、この戦法により多くの犠牲者を出しました。

さらに、真田昌幸は上流に築いていた人工の堰を決壊させ、神川を渡ろうとする徳川軍を水攻めにしました。突如流れ込んだ濁流により、多くの兵士が巻き込まれ、混乱は一層激しさを増しました。

しかし、この戦いの記述には、大規模な合戦が行われたという確固たる史料が存在しないため、一部では創作の可能性も指摘されています。

この点から、第二次上田合戦は、史実と伝承が交錯する戦いとも言えます。実際には小規模な衝突があったに過ぎないとする見方もあるのです。

戦いの終盤、秀忠は家康からの使者を受け取り、関ヶ原の戦いに参加するため、上田城攻めを中断し、急いで軍を引いたとされています。この遅参が、関ヶ原の戦いの結果にどのように影響を与えたのかは、今もなお多くの議論が交わされるところです。

この戦いによって、真田家はその名を天下に知らしめ、昌幸の知略と幸村の勇猛さは、後世に語り継がれることとなりました。彼らの戦いは、日本の歴史における一頁を飾る勇敢な記録として、今も多くの人々に魅力を伝えています。

第二次上田合戦の戦後処理と後世での評価

第二次上田合戦の戦後、真田昌幸と息子の真田幸村(信繁)は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍が敗れた後、徳川家康の命により高野山に配流されました。

一方で、徳川軍に属していた長男の真田信之(信幸)は、徳川家から上田城を含む一帯の支配権を与えられました。こうして、真田家は存続することができましたが、昌幸と幸村はその後の人生を高野山で静かに過ごすことになります。

後世での評価について考えると、第二次上田合戦は特筆すべき戦略的価値を持っていたとされています。特に昌幸の戦術は、少数精鋭で大軍を相手に優位に立つ知略を持っていたことを示しています。

しかし、歴史的記録にはこの合戦についての明確な記述が少なく、多くが伝説や後世の創作によるものであるとも指摘されています。そのため、実際の合戦の様子は詳細には分かっていません。

一方で、この合戦は、「弱小勢力が知恵と勇気で大軍に立ち向かった」という物語として後世に語り継がれ、真田家の名声を高める要因となりました。

昌幸や幸村(信繁)の戦術や勇気は、多くの歴史ドラマや小説で描かれ、今もなお多くの人々に親しまれています。

戦後の処理が真田家にとって苦難の道であったことは間違いありませんが、その運命を受け入れつつも、家名を守り抜いた彼らの決断と行動は、後世に勇気と知恵の象徴として評価されているのです。

そのため、第二次上田合戦は、単なる戦い以上の意味を持ち、日本の歴史における戦術や家族の絆の重要性を伝える物語として、長く記憶され続けています。

第二次上田合戦が起きた場所や関連する場所へのアクセス方法

第二次上田合戦が起きた場所や関連する場所へのアクセス方法を紹介します。

上田城(長野県上田市)

上田城は第二次上田合戦の主戦場です。現在は城址公園として整備されており、歴史を感じることができます。

最寄り駅は上田駅で、JR長野新幹線やしなの鉄道を利用してアクセス可能です。上田駅からは徒歩約20分となっています。

城址には本丸跡や石垣が残り、春には桜が美しいスポットとしても知られています。

砥石城(長野県上田市)

砥石城は真田幸村が守った上田城の支城で、第二次上田合戦における重要な拠点の一つです。現在の城址は上田市内にあり、上田駅から車で約15分の場所に位置しています。

城址は自然豊かな環境にあり、散策路が整備されているため、歴史を感じながらのハイキングが楽しめます。

小諸城(長野県小諸市)

小諸城は徳川秀忠が第二次上田合戦において本陣を置いた場所です。現在は小諸城址公園として整備されており、美しい庭園が広がっています。

小諸駅から徒歩で約15分の位置にあり、城址公園では四季折々の自然を楽しむことができます。

高野山(和歌山県高野町)

高野山は、真田昌幸と真田幸村が関ヶ原の戦いの後、配流された場所です。高野山へは、南海電鉄高野線の最終駅である極楽橋駅からケーブルカーで高野山駅へアクセスできます。

高野山は世界遺産にも登録されており、厳かな雰囲気の中で昌幸や幸村の足跡を辿ることができます。

松代城(長野県長野市)

松代城は、関ヶ原の戦いの後、真田信之が転封された場所です。現在は城跡が残り、松代大本営跡としても知られています。

松代駅から徒歩でアクセスでき、城址周辺は歴史的な建物や資料館も多く、歴史探訪に最適なエリアとなっています。

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