武田信玄とはどんな人物?何をした人なのかエピソードや性格・人柄を解説!

戦国時代、日本の歴史にその名を刻んだ武田信玄。甲斐の国を治め、その智謀と勇猛さで多くの人々を魅了しました。

風林火山の旗印のもと、彼の率いる騎馬軍団は敵を圧倒し、その戦略は今なお語り継がれています。

治世者としても優れ、治水工事や新田開発により民衆の生活を豊かにしました。また、文化にも造詣が深く、茶の湯を愛しました。

信玄の生きざまは、ただ強いだけではない、深い愛と思慮があったことを物語っています。この記事では、そんな武田信玄の人生や魅力を紹介します。

目次

武田信玄の出身地や生まれ年は?

戦国時代の甲斐国を治めた名将、武田信玄。源氏の流れを汲む武田家の16代目として、1521年に生まれました。父は甲斐の守護大名・武田信虎で、母は大井の方。彼が生まれたのは、要害山城でした。

若き信玄は、父・信虎に代わり、わずか21歳で甲斐国の大名になりました。彼の統治下、甲斐はさらに力をつけ、信濃や他の地域へと勢力を拡大していきます。

特に、越後の上杉謙信とは川中島で5回にわたり戦い、互いの武勇を競いました。その中の一戦では、上杉謙信と信玄が一騎打ちをするなど、伝説的なエピソードが残されています。

信玄は、甲斐の虎と恐れられ、また尊敬もされていました。その武勇だけでなく、国を思う心も人々に伝わっています。

死を間近に控えた信玄は、自分の死を3年間隠すよう遺言しました。これは、甲斐国が外敵に脅かされることを防ぐためでした。

亡くなったのは53歳の時。生涯をかけて、甲斐国と民を守り通した信玄。その生き様は、後世に多くの人々に語り継がれています。

武田信玄の人生とは?やったことや人となり

武田信玄は、戦国時代を代表する名将で、甲斐国(現在の山梨県)を治めた武田家の当主として知られています。彼の人物像は多面的で、戦略家、治世者、文化人としての側面があります。

信玄の人生と業績は、戦国時代を代表するものであり、日本史の中で特筆すべき存在です。そんな武田信玄の人生を紹介します。

父・信虎の追放から信濃攻めまで

信玄の生まれた家、武田家は代々甲斐国を統治してきた名家であり、父・信虎の代には特にその権力を拡大し、戦国大名としての地位を固めました。

信玄自身も若くして武術や学問に優れ、将来を嘱望される存在でした。

彼が幼い頃、わずか2~3日で「庭訓往来」という書物の中身をすべて暗記し、その才能に教育係の僧侶が驚嘆したという逸話が残っています。

しかし、信虎は信玄を疎んじ、弟の信繁に家督を譲ろうと考えていました。それでも、21歳の時、信玄は重臣たちを味方につけ、父を駿河の今川義元のもとへ追放し、武田家の家督を継ぐことに成功しました。

この出来事は、信玄が父を殺害することなく、平和的に家督を相続した珍しい例とされています。

家督を継いだ信玄は、まず信濃の諏訪への侵攻を計画しました。これは、信濃との緊密な関係を解消し、武田家の権力を確立するための一手でした。1542年、信玄は諏訪氏の居城である上原城と桑原城を攻略し、諏訪領を手中に収めました。

しかし、信濃侵攻は容易なことではありませんでした。小笠原氏などの強力な敵が存在し、武田家にとって大きな障害となりました。信玄は敵将兵の首を城外に並べ、心理戦を行うなど、敵に恐怖を植え付ける戦術を駆使しました。

1548年、信玄の戦略は一時的に裏目に出ます。北信濃で勢力を拡大していた村上義清が、信玄の攻撃を受けて反撃に出るのです。

この「上田原の戦い」は、信玄にとって初の敗北となりました。しかし、この敗北によって信玄は一層の強さを得ることとなり、その後の信濃侵攻を成功させました。

甲相駿三国同盟の締結から第四次川中島の戦いまで

天文22年(1553年)の春、信玄は長尾景虎(後の上杉謙信)との間で第1次川中島の戦いを展開しました。

これは信濃国の支配権を巡る争いであり、信玄は村上義清の葛尾城を一時占領しましたが、その後敗れて奪還されました。この時期、信玄は信濃国の複数の城を攻略し、一時は優位に立つものの、上杉軍の猛攻により苦戦を強いられました。

天文23年(1554年)は、武田晴信(後の信玄)にとって重要な年となります。信玄は内政にも目を向け、天文23年(1554年)には、今川義元・北条氏康との間で、甲相駿三国同盟を締結しました。

この同盟は、今川義元と北条氏康の間の和睦を仲介し、信玄の娘を北条氏政に嫁がせるなど、外交面での巧みな動きを見せました。この同盟により、信玄は外敵の心配なく謙信との戦いに集中することができました。

天文24年(1555年)には第2次川中島の戦いが勃発しました。この戦いでは、200日にわたる長期戦となり、最終的には今川義元の仲介によって和睦が成立しました。しかし、この戦いを通じて信玄の勢力は川中島地方にまで及ぶようになりました。

弘治3年(1557年)の第3次川中島の戦いでは、信玄は葛山城を攻略し、北信地方の支配を強化しました。

永禄4年(1561年)、最大の激戦である第四次川中島の戦いが勃発しました。

信玄は20,000の兵を率い、八幡原を主戦場として謙信と対峙しました。この戦いは、川中島での戦いの中でも最も大規模で、多くの死傷者を出しました。

戦いはまさに緊迫の連続でした。信玄は緻密な戦略を立て、謙信との間で激しい攻防を繰り広げます。特に、この戦いにおける信玄の策略は、後世に多くの議論を呼び、戦国時代の戦術の傑作として評価されています。

しかし、この戦いで信玄の軍も大きな損害を受けました。信玄の弟である武田信繁や、軍師の山本勘助など、多くの重臣が戦死しました。信玄自身も戦いの最中、謙信による一騎討ちの場面があったとされ、その勇敢さは今も多くの人々に語り継がれています。

この戦いは、武田軍と上杉軍が互いに勝利を主張するものの、明確な勝者が定まらなかったとされています。

最終的には川中島地方が武田の勢力下に入ることとなり、信玄の信濃における支配が確立されました。

駿河侵攻から三方原の戦いまで

永禄7年(1564年)、信玄は飛騨に介入し、この動きは上杉氏との緊張を一層高めました。同年6月、彼は家臣の山県昌景・甘利昌忠を飛騨へ派遣し、上杉氏との争いにおいて一時的な優位を確立します。

しかし、その年の8月に起こった第五次川中島合戦では、塩崎城まで進軍しながらも両軍は決戦を避け、約2ヶ月間対峙したのち撤退しました。

その後、永禄年間(1558年以降)、信玄は外交においても積極的に動きます。越中国の権力者たちとの駆け引きを行い、石山本願寺の顕如と縁戚関係を結ぶなど、地域の勢力バランスに巧みに介入しました。

永禄11年(1568年)には、信玄は大胆な駿河侵攻を決行します。今川義元の死と今川家の弱体化を背景に、信玄は今川氏の領土を手に入れることに成功しました。しかし、この動きは今川氏との同盟関係の緊張を招き、甲相駿三国同盟の崩壊を引き起こします。

永禄12年(1569年)6月16日、信玄は再び駿河侵攻を行い、当時弱体化していた今川氏にとどめを刺しました。この勝利により、信玄は駿河の主要部分を支配下に置き、その勢力を一層拡大しました。

元亀2年(1571年)、足利義昭が織田信長討伐令を出し、これに呼応するかたちで、翌元亀3年(1572年)、信玄は遠江国・三河国に侵攻を開始します。北条氏康の死をきっかけに北条氏と和睦し、甲相同盟を復活させた信玄は、西上作戦の準備に入ります。

この作戦では、武田軍は兵を2つの隊に分け、遠江国・三河国への同時侵攻を敢行。山県昌景率いる部隊は三河へ侵攻し、信玄自身は22,000人の本隊を率いて遠江国に侵攻しました。

武田軍の総計2万7千人の軍勢は、当時の武田氏の最大動員兵力であり、その軍は目的地に向かって勢いよく進軍しました。

しかし、徳川氏は困難な状況に直面していました。三河国に山県隊が侵攻していたため、遠江国防衛のためには実際には8,000人余しか動員できず、織田氏も信長包囲網に参加していた近畿の各勢力と戦っていたため、徳川氏に援軍を送ることができませんでした。

一言坂・二俣城の戦いで、武田軍は徳川氏の本城・浜松城と支城・掛川城・高天神城を結ぶ要所・二俣城を包囲。

二俣城の兵力はわずか1,200人でしたが、武田軍の降伏勧告を拒否しました。その結果、12月19日、助命を条件に開城・降伏し、遠江国の北部が武田領となりました。

そして、三方ヶ原の戦いが始まります。徳川家康と佐久間信盛は、武田軍の次の狙いが浜松城であると考え、籠城戦に備えていました。

しかし、武田軍は遠州平野内を西進し、三方ヶ原台地を目指しました。これを知った家康は、連合軍を率いて武田軍を追撃。しかし、武田軍は魚鱗の陣を敷き、連合軍を撃破しました。

武田軍の死傷者は200人であったのに対し、徳川軍は死傷者2,000人を出し、多数の有力な家臣を失いました。しかし、家康は危機的状況から逃れ、浜松城へ逃げ帰りました。

武田信玄の最期|何歳で死んだ?

三方原の戦いで勝利し、いよいよ上洛へ進むかと思われた武田信玄ですが、その直後から健康状態が急速に悪化。度々の喀血を見せるようになりました。

病は彼を襲い、武田軍の進撃は停止せざるを得ませんでした。そのため、信玄は長篠城での療養を余儀なくされ、最終的には甲斐への撤退を決断します。

しかし旅路の途中、信濃国駒場(現在の長野県下伊那郡阿智村)で、信玄はこの世を去りました。享年53。死因については諸説ありますが、肺結核・胃ガン・肝臓病だったのではないかといわれています。

彼の法名は恵林寺殿機山玄公大居士とされ、菩提寺は山梨県甲州市の恵林寺に現存しています。武田信玄の辞世の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」と記されています。

また、彼の遺言には、自らの死を3年間秘匿し、息子勝頼には信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼るよう遺言しています。信玄の遺骸を諏訪湖に沈めるという逸話もありますが、これは後の誤解であり、事実ではないとされています。

信玄の死後、家督を継いだ勝頼は、遺言に従い、信玄の葬儀を行わずに死を秘匿しました。

駒場の長岳寺や甲府岩窪の魔縁塚には、信玄の火葬地とする伝承が残り、円光院では安永8年(1779年)に甲府代官による発掘が行われ、信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発見されたとの記録があります。

武田信玄の逸話・エピソードまとめ

戦国時代、甲斐国の猛将として名を馳せた武田信玄は、ただの戦士ではなく、知恵と洞察力に富んだ指導者でした。その知略は、彼の行動や言葉に多く表れています。

日本初の水洗トイレ?

武田信玄は、生活の中にも工夫を凝らしていました。躑躅ヶ崎館に自分専用の水洗トイレを設置したというエピソードは、彼の創意工夫が光る逸話です。

家臣が「なぜ厠を山と言うのか」と尋ねたとき、信玄は「山には常に、草木(臭き)が絶えぬから」と答えました。彼の機知に富んだ回答は、敵襲に備えると同時に、日常生活にも気を配る姿勢を示しています。

風林火山

武田信玄を語る上で、「風林火山」という言葉は欠かせません。

信玄の軍旗に記された「風林火山」という四文字は、ただのスローガンではありません。それは戦略、哲学、そして生き方を表すもので、今もなお多くの人々に影響を与え続けています。

この言葉の由来は、中国の古典『孫子の兵法』にあります。全文は「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山、難知如陰、動如雷霆」というもので、これが武田信玄の軍旗に簡潔に記されたのです。

しかし、信玄の旗には「風林火山」までしか記されておらず、最後の部分は含まれていません。これがどうしてなのか、明確な理由はわかっていませんが、それぞれの言葉には深い意味が込められています。

「疾如風」は風のように迅速に、そして「徐如林」は林のように静かに、これらは軍隊が持つべき二面性を示しています。「侵掠如火」は火のように激しく攻めることを、「不動如山」は山のようにしっかりと守ることを意味しています。

これらは、戦場での理想的な行動様式を示し、時と場合に応じた柔軟な対応を教えています。

武田信玄と春日虎綱

武田信玄は多くの武将、家臣との間に深い信頼関係を築いていました。その中でも、春日虎綱との関係は特に深いものがあったとされています。史料によれば、二人はただの主従以上の絆を共有していたと言われています。

とある文書には、信玄が春日虎綱との間に誤解が生じた際に書いたとされる書状が残っています。「私は浮気してない!」という、まるで今日のドラマのような内容の書状です。信玄は春日虎綱からの疑念に対し、自らの清廉さを強く主張していました。

戦国時代において男色は珍しいことではありませんでした。伊達政宗や小早川隆景、陶晴賢など、多くの有名な武将も同様の関係を持っていたとされています。

このような文化が広く認知されていた時代背景を踏まえると、信玄と春日虎綱の関係も、当時としてはそれほど特異なものではなかったのかもしれません。

しかし、信玄と春日虎綱の逸話には、ただの男色関係を超えた、深い信頼と絆があったことが窺えます。

信玄は春日虎綱の忠誠を大切にし、春日虎綱は信玄に尽くした。その絆は、戦乱の世を生き抜く彼らにとって、おそらくはかけがえのない支えだったに違いありません。

武田信玄と関わりのある場所まとめ

戦国時代の名将、武田信玄に関わる場所は、彼の生涯と武功によって多くの歴史的な意義を持っています。以下に、そのような場所を10個挙げ、それぞれの場所がどのようなものなのかを説明します。

  • 武田神社(山梨県甲府市):武田信玄を祀る神社で、多くの信玄ファンや歴史愛好者が訪れます。特に春の信玄公祭りの時期は、多くの人で賑わいます。
  • 躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市):信玄の居館があった場所。武田家の栄華を偲ぶことができる場所です。
  • 信玄堤(山梨県甲斐市):信玄が治水のために築いた堤。現在もその姿を留めており、信玄の治世の知恵と努力を偲ぶことができます。
  • 諏訪大社(長野県諏訪市):武田信玄が度々参拝し、また諏訪原の戦いでの勝利など、信玄にとって重要な場所でした。

これらの場所は、武田信玄の生涯や功績を今に伝える重要な地点であり、訪れることで武田家の歴史に触れることができます。

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