上杉謙信とはどんな人物?何をした人なのかエピソードや性格・人柄を解説!

戦国時代、荒れ狂う乱世の中で一際明るく輝いた武将、上杉謙信。義に生き、武田信玄との激しい戦いを繰り広げた川中島の合戦で名を馳せました。

独特の戦術と、敵であっても敬うその心が人々を惹きつけた謙信は、毘沙門天を崇拝し、自らをその化身として戦場に立ちました。常に前進を止めなかった謙信の生涯は、義を貫く厳しい戦国の世を象徴するエピソードに満ちています。

今回は、そんな上杉謙信の知られざる一面とその時代背景を紐解き、その魅力に迫ります。

目次

上杉謙信の出身地や生まれ年は?

上杉謙信は、1530年、越後守護代・長尾為景の四男として越後国の春日山城で生まれました。幼名を虎千代といいました。

7歳から14歳までの間は春日山城下の林泉寺で過ごし、深い学識と厚い仏心を育みました。病弱だった兄に変わって家督を継ぎ、長尾景虎と名乗り、越後守護代としての役割を果たし始めました。

上杉謙信は、武田晴信(信玄)や北条氏康、織田信長といった当時の名将たちと数多くの戦いを繰り広げました。特に、5回に渡る川中島の合戦は非常に有名です。

上杉謙信の戦い方は、ただの欲望からではなく、常に義を重んじたものでした。その象徴ともいえるのが、「敵に塩を送る」というエピソードです。

武田晴信が塩の供給を絶たれて困っている時、謙信は敵である彼に塩を送りました。この行為は、後の世に大いに讃えられました。

一方で和歌や書にも通じる文化人であり、その才能と教養は多くの人々に尊敬されました。彼の旗印である「毘」の文字は、彼の厚い信仰心を示しています。

生涯未婚を貫き、49歳でこの世を去った謙信ですが、彼の生き方や考え方は、現代にも多くの影響を与え、多くの人々に尊敬され続けています。

彼の正義感あふれる生き方や、戦だけではなく文化にも造詣が深いところは、特に心に残ります。謙信のような武将は、戦国時代においても非常に稀であり、そのため、私たちにとっても大切な教訓となるのです。

上杉謙信の人生とは?やったことや人となり

上杉謙信は、戦略家としてだけでなく、人々を惹きつけるカリスマ性と、時に敵でさえも敬愛するその人柄にありました。

まずは、上杉謙信の光と影を織り交ぜながら、その生涯を深く掘り下げていきます。

幼少期から越後統一まで

上杉謙信は、1530年(享禄3年)1月21日に越後国春日山城で長尾為景の四男として誕生しました。彼の母は越後栖吉城主・長尾房景の娘・虎御前であり、幼名は虎千代といいました。幼少期からその出自は、越後国の政治情勢に大きく関わる環境で育ちました。

1536年、父・為景が隠居し、兄・長尾晴景が家督を継ぎました。虎千代は林泉寺に入門し、そこで学問や武道を学びました。この時期は、彼の精神性や武勇に大きな影響を与えたとされています。

1542年、為景が病没し、虎千代は甲冑を着け、亡父の柩を護送しました。この一連の出来事は彼の勇気と家族への深い愛情を示しています。

翌1543年には元服し、長尾景虎と名乗りました。その後、彼は栃尾城の戦いで初陣を飾り、敵を撃退しました。この戦いは、彼の戦略的思考と勇猛さを証明する出来事となりました。

1545年には黒滝城の戦いで兄を失いましたが、景虎は軍の指揮を執り、敵を降伏させました。この戦いは、彼が単なる勇者でなく、計略を巡らせる指導者であったことを示しています。

1546年、越後国内の内紛が激化しましたが、景虎は様々な困難に立ち向かい、政敵たちを次々と打ち破りました。1548年には越後国内のさまざまな勢力の支持を受け、晴景に代わって守護代に擁立されました。

1550年、室町幕府第13代将軍・足利義輝の後ろ盾を得て、越後守護を代行することとなり、越後国主としての地位を確立しました。その年の12月には、一族の長尾政景が反乱を起こしましたが、翌年、景虎はこれを鎮圧し、22歳で越後統一を成し遂げました。

第一次川中島の戦いから第四次川中島の戦いまで

1552年(天文21年)、謙信は関東管領・上杉憲政を迎え入れ、北条氏康と敵対関係になりました。同年8月、謙信は関東に派兵し、北条軍を撃退、上野国の城を奪還しました。これらの動きは、後の武田信玄との確執の序章となりました。

1553年(天文22年)4月、信濃国の村上義清が武田晴信の軍勢に敗れ、謙信に援軍を求めました。謙信はこれに応じ、同年8月には布施の戦いで武田軍の先鋒を撃破しました。

この勝利は、第一次川中島の戦いへと続きました。謙信は武田領内へ侵攻し、荒砥城や虚空蔵山城を攻め落としましたが、決定的な勝利には至りませんでした。

1555年(天文24年)、謙信は再び信濃国へ出兵し、武田晴信と第二次川中島の戦いで対峙しました。この戦いは、双方のにらみ合いに終始し、今川義元の仲介により和睦しました。

1557年(弘治3年)、第三次川中島の戦いが勃発しました。謙信は武田領内に深く進軍し、高井郡山田城、福島城を攻め落としましたが、武田軍との決定的な戦いには至らず、戦いは膠着状態で終わりました。

1561年(永禄4年)、第四次川中島の戦いが発生しました。謙信は1万9000人の兵を率いて川中島へ出陣しました。謙信軍は八幡原で武田軍と対戦し、双方に多数の死傷者を出しました。この戦いは両軍の力の均衡を示し、後に武田・上杉間の抗争は収束しました。

関東出兵から越相同盟まで

1561年(永禄4年)11月、武田信玄の西上野侵攻と北条氏康の反撃が始まりました。上杉政虎、後の謙信は関東における武田氏との協調に直面し、この時期には敗北を味わうこともありましたが、その後も粘り強く戦い続けました。

永禄4年、武田信玄の上野国への侵攻に抗戦しましたが、病死した箕輪城主・長野業正の死により、事態は複雑化しました。武田軍は上野国に侵入し、北条氏康も軍を動かし、勢力を北に伸ばしました。この動きに対し、謙信は安房国の里見義堯・義弘父子と同盟を結び、対抗しました。

1562年(永禄5年)、謙信は上野館林城主の赤井氏を滅ぼしましたが、佐野昌綱が籠城する唐沢山城は落城させることができませんでした。越中国にも出陣し、椎名康胤を圧迫する神保長職を降伏させるなど、勢力を拡大していきました。

しかし、謙信が関東を空けた隙に、北条・武田連合軍による松山城の攻撃が発生し、謙信は劣勢に立たされました。それでも、彼は反撃に出て、武蔵国への侵攻や下野の小山城攻略など、転戦を続けました。

1564年(永禄7年)、最後の川中島の戦いが発生しました。60日間の激戦の末、決着は着かず、双方が軍を引きました。これを最後に謙信と信玄が川中島で戦うことはありませんでした。

1565年(永禄8年)、謙信は関宿城を巡る戦いで苦戦を強いられました。関東の諸将たちが次々と離反し、謙信の立場は厳しくなりました。

しかし、1569年(永禄12年)には、長年の敵であった北条氏康と越相同盟を結び、新たな局面を迎えました。この同盟により、関宿城の包囲が解除され、上野国の北条方の豪族は謙信に従いました。

謙信は、北条氏康との同盟を通じて上野国を確保し、北陸諸国の平定を本格的に目指すようになりました。

一方で、北条氏が擁する足利義氏を古河公方として認めることにもなり、越相同盟は上杉方の関東諸将に対する不信感を抱かせる結果となりました。長年北条氏と敵対してきた里見義弘は、謙信との同盟を破棄し、信玄と同盟を結びました。

越中遠征から手取川の戦いまで

元亀元年(1570年)12月、上杉輝虎は法号「不識庵謙信」を称し、以降「上杉謙信」として知られるようになりました。

謙信の越中遠征は、元亀2年(1571年)に始まります。2万8000人の兵を率い、越中の椎名康胤が立て籠もる富山城を攻撃しました。

謙信の軍勢は、康胤が抵抗を続ける新庄城・守山城なども攻略しました。しかし、康胤は越中一向一揆と手を組み、謙信に抵抗を続けました。越中支配をかけた戦いは、両者にとって熾烈を極めるものでした。

一方、北条氏政は謙信との同盟を破棄し、武田信玄と和睦しました。これにより、謙信は再び北条氏と敵対することとなりました。元亀3年(1572年)、謙信は信玄による越中一向一揆の煽動に直面し、主戦場を関東から越中に移すことを余儀なくされます。

元亀3年(1572年)5月、武田信玄との連携を取る越中一向一揆が、上杉方の日宮城、白鳥城、富山城などを攻略しました。

謙信は越中へ出陣し、新庄城に布陣。その後、富山城の一揆勢は退却しました。上杉軍は神通川を越えて西進し、滝山城を攻略しました。さらに、謙信は信長からの申し出を受け、同盟を締結しました。

元亀4年(1573年)4月、謙信は宿敵・武田信玄が病没したことを知ります。信玄の死により、武田氏の影響力は薄れました。天正元年(1573年)8月、謙信は越中国へ出陣し、増山城・守山城などを攻略しました。さらに、上洛の道を開くため、加賀国まで足を伸ばし、一向一揆が立て籠もる朝日山城を攻撃しました。謙信は、越中を自国領にする方針を固め、さらに江馬氏の服属で飛騨国にも力を伸ばしました。

天正元年(1573年)8月、謙信は能登国に進み、七尾城を囲みました。しかし、七尾城は難攻不落であり、攻略に時間がかかりました。

能登国での戦況悪化に加え、足利義昭や毛利輝元からの上洛の促しもあり、謙信は再び能登に侵攻し、七尾城を再び包囲しました。遊佐続光らの内部対立を利用し、ついに七尾城を攻略しました。

天正5年(1577年)、七尾城を攻略した謙信は、織田信長の援軍要請を受けた3万の織田軍が加賀北部に進軍しているとの情報を得ました。

謙信は織田軍を迎え撃つために急いで南下し、織田軍が手取川を渡るのを待ち伏せしました。結果、謙信は織田軍を撃破し、手取川の戦いに勝利しました。

上杉謙信の最期|何歳で死んだ?

ていました。その遠征は上洛して織田信長を討つことであったとも、再び関東に侵攻する計画であったとも言われています。しかし、その計画が実行されることはありませんでした。

準備中、謙信は春日山城内の厠で突然倒れ、昏睡状態に陥りました。病むこと5日、彼はこの世を去りました。死因は脳溢血との見方が強いです。

謙信の遺骸は、甲冑を着せ、太刀を帯びさせた後、甕に納めて漆で密封されました。この甕は上杉家が米沢に移ると、米沢城本丸に安置され、その後、歴代藩主が眠る御廟に移されました。

また、明治維新後も上杉神社に祀られ、毎年4月29日が祭日と定められました。彼の死後数百年経っても、その功績は讃えられ、多くの人々に記憶されています。

上杉謙信の生涯は、戦国の世を生き抜きながらも、民を慈しむ心を持った稀有な武将であったことが伺えます。

彼の死は、戦国時代の終わりと共に、一つの大きな時代の終焉を告げるものでした。彼の生き様は、今後も多くの人々に語り継がれ、その名は永遠に記憶されるでしょう。

上杉謙信の逸話・エピソードまとめ

上杉謙信の生涯は、ただの戦いの記録では収まらない数々の逸話に彩られています。

己を磨き、敵であろうともその苦境に手を差し伸べたとされる「敵に塩を送る」話や、自ら毘沙門天の化身として戦場に立つ姿など、武勇伝は今も多くの人々に語り継がれています。

ここでは、そんな上杉謙信の知られざる逸話やエピソードを紹介します。

敵に塩を送る

海に面していない甲斐国(現在の山梨県)を治めていた武田信玄は、塩の供給を受けるために、駿河国(現在の静岡県)の今川家と取引をしていました。

しかし、信玄と今川家の同盟関係が破綻した際、今川家は武田家への塩の供給を停止し、周辺大名にもそれに加わるよう呼びかけました。

このとき、越後国(現在の新潟県)の上杉謙信はこの要請に応じず、甲斐国に塩を送り続けたと伝えられています。

この行動は「敵に塩を送る」という言葉の起源とされ、敵であっても困窮する者には手を差し伸べるべきだという謙信の義の心を象徴する逸話とされています。

ただし、この話には実際に謙信が塩を送ったのか、あるいは塩商人の通行を許しただけなのか、さらには高値で売りつけたのではないかという諸説が存在します。

真偽は定かではありませんが、この逸話は謙信の人となりを象徴するものとして、後世に伝えられています。

上杉謙信は女性だった?

戦国時代の武将として名高い上杉謙信ですが、その人物像については今なお多くの謎が残されています。中でも特に興味を惹くのが、「実は謙信は女性ではなかったか」という説です。

この説は、歴史小説家の八切止夫さんの小説『上杉謙信は女人だった』がきっかけで広まりましたが、その根拠とされるエピソードは実に興味深いものです。

まず、上杉謙信が「敵に塩を送る」などの行動から女性的な優しさを持っていたとされ、さらに、上杉謙信と思われる人物が叔母と記されている文書が存在するかもしれないという話があります。

加えて、筆跡や読書の好みが女性的で、特に恋愛をテーマにした『源氏物語』や『伊勢物語』などを好んでいたとされています。また、生涯独身を貫いたことも、彼(彼女?)の性別に関する疑問を生む一因とされています。

しかし、これらの点を根拠とする上杉謙信女性説には、明確な証拠が見つかっていません。実際に上杉謙信が女性だったという確固たる証拠は存在しないため、この説はあくまで一つの仮説、いわば「もしもの話」として楽しむのが妥当かもしれません。

上杉謙信は毘沙門天の化身?義に生きた理由とは?

上杉謙信は義を重んじ、戦国時代の混乱の中でも、特異な存在感を放つ武将でした。謙信は戦いの神である毘沙門天を深く崇拝し、自らを毘沙門天の化身と考え、その信仰心が謙信の行動に大きく影響を及ぼしていたと言われています。

謙信の義に生きた姿勢は、家臣たちが土地を巡って争いを続けていたことに失望し、春日山城から高野山に向かって出奔したエピソードからも伺えます。天下統一よりも、義を重んじ、正しい道を歩むことを選んだ謙信の姿勢は、多くの人々に強い印象を与えました。

また、謙信の軍旗に描かれた「毘」の文字も、彼の毘沙門天への信仰心を象徴しています。

謙信の母、虎御前が信心深く、幼い謙信を教育した天室光育の影響も大きかったとされます。国主になってからは、春日山城下に毘沙門堂を建立し、毘沙門天を祀って国内の安全と合戦の勝利を日夜祈願していたと伝えられています。

上杉謙信と関わりのある場所まとめ

上杉謙信と関わりのある場所をご紹介します。

  • 春日山城(越後国、現新潟県上越市)上杉謙信の居城。越後国を統治する拠点であり、謙信の政治・軍事の中心地。城跡は現在も残っており、謙信の歴史を感じることができます。
  • 川中島(長野県)上杉謙信と武田信玄との間で5回にわたって行われた川中島の戦いの場。現在は戦国時代の激戦地であったことを伝える史跡や記念碑があります。
  • 米沢市(山形県)上杉家が関ヶ原の戦い後に移封された地。上杉家が新たな基盤を築き、米沢藩として発展していきました。

これらの場所は、上杉謙信の生涯や業績を今に伝える重要なスポットであり、歴史愛好家や観光客にとって貴重な訪問先です。

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