浅井長政とはどんな人物?何をした人なのかエピソードや性格・人柄を解説!

浅井長政は北近江を治めた武将です。織田信長の妹、お市の方との政略結婚や、朝倉家との深い結びつきにより、織田家との複雑な関係にありました。

美濃の斎藤家攻略、上洛途中の六角家攻撃、そして織田信長との確執と同盟の狭間で揺れる浅井家の運命は、まさに戦国の世を象徴するエピソードに富んでいます。

この記事では、浅井長政の生涯を紐解きながら、彼の歴史的意義と、その時代の背景に迫ります。浅井長政の波乱に満ちた生涯を、ぜひご覧ください。

目次

浅井長政の出身地や生まれ年は?

戦国時代を駆け抜けた浅井長政は、北近江(現在の滋賀県)を拠点に活躍した武将です。

浅井長政は、1545年にこの世に生を受けました。彼は北近江(現在の滋賀県)を治める浅井氏の家に生まれ、父は同じく武将である浅井久政です。彼の時代、浅井氏は北東部に勢力を持ち、その中心に立っていたのが長政でした。

長政は織田信長の妹、お市の方と結婚し、この結びつきから両者は同盟を結びました。この同盟期間中、長政はお市と共に3人の娘、茶々、初、江をもうけ、幸せな家庭を築いていたとされます。

しかし、その後、信長が約束を破ったことから関係は急速に悪化。最終的には信長に反旗を翻し、1573年に小谷城での悲劇的な最期を迎えました。

浅井氏の滅亡後も、長政の影響は色褪せることはありませんでした。彼の子孫は徳川家光の外祖父となり、その縁から死後の1632年には従二位・中納言に追贈されるという名誉を受けています。

戦国時代ファンの間では、その劇的な人生や家族関係から、大河ドラマにも取り上げられるなど、後世に語り継がれる存在となっています。

浅井長政の人生とは?やったことや人となり

浅井長政の生涯は、織田信長という時の大潮に翻弄されながらも、その独自の判断で時には抗い、時には協調するという、戦国の世の中を生き抜く知恵と勇気が感じられます。

しかし、最終的には運命に翻弄される形でその生涯を閉じた長政の人生は、戦国時代の厳しさと、一族を守るための苦悩を象徴しているように感じられます。

家督相続と織田家との同盟

1545年(天文14年)、浅井久政の嫡男として生まれた彼は、幼名猿夜叉丸と呼ばれ、父久政のもとで、厳しい時代の中、生を受けました。

若き日の長政は、15歳で六角氏から賢政と名乗らせられ、政略結婚も強いられるなど、六角氏に強い影響を受けていました。

しかし、彼はこの束縛から脱し、1560年(永禄3年)、野良田の戦いで六角軍を打ち破り、浅井氏の独立を果たします。父・久政を竹生島に追放し、浅井家の当主となった彼は、新九郎と名を改め、その勇名は広く知れ渡りました。

織田信長との同盟は、彼の生涯における重要な転機です。

浅井長政の名は、浅井家の成長とともに織田信長の目に留まるようになりました。信長は、美濃斎藤氏との戦いに苦しんでいた1560年代、同盟を提案します。

この同盟は、政略結婚を含むもので、1567年(永禄10年)頃、長政は信長の妹のお市と結婚しました。この結婚は、当時としては異例の信長側からの負担で行われ、長政は信長の一字を拝領して「長政」と改名しました。

これにより、織田・浅井家の関係はより強固なものとなり、信長は上洛経路ともなる近江口を確保し、美濃国攻略の足掛かりとしました。

長政の協力を得た信長は、足利義昭を奉じて京に上りました。その途中、浅井長政は織田信長と共に観音寺城(滋賀県近江八幡市)を攻め、そして六角氏を滅ぼします。

その後、上洛を果たした信長は足利義昭を室町幕府第15代将軍に据え、その後見人として権勢を奮います。この頃の長政は信長に従い、お市との間にも、茶々・初・お江が生まれるなど、両者の関係はとても良好でした。

同盟の破棄と姉川の戦い

しかし、幸せな時期は長くは続きませんでした。1570年4月、金ヶ崎の戦いが起こります。信長が若狭武藤氏討伐を名目に朝倉義景の領国越前へ侵攻すると、信長軍の背後を浅井氏が突如襲い、信長は撤退を余儀なくされました。

この行動が、長政にとって、そして浅井家にとって、運命を大きく変えることになります。

金ヶ崎の戦い後、信長は軍を立て直し、近江国の有力国衆である堀秀村が織田側に寝返ったという情報を受け、いよいよ浅井氏に対する攻撃を開始しました。

信長はまず小谷城を攻めるため、浅井氏の城下町を焼き払いました。しかし、小谷城は容易に落とせる城ではなく、織田軍は横山城を攻め落とすことで前線要塞を築きました。

浅井・朝倉連合軍は、近江国の横山城から南に位置する姉川を隔てた地に布陣し、織田・徳川連合軍と対峙しました。横山城包囲中、徳川家康が織田軍に合流し、6月28日未明には両軍が野村・三田村に布陣しました。

午前6時頃に戦闘が始まり、朝倉軍が敗走し、浅井軍も続いて敗走しました。織田・徳川側は1,100余りを討ち取って勝利し、この戦いで地名に残るほどの激戦が繰り広げられました。

その後の数年間、長政は信長に対抗するため、朝倉や信長に脅威を覚えた三好三人衆、本願寺とともに、織田家と戦います。

元亀3年(1572年)7月、織田信長が北近江に侵攻しましたが、長政は織田軍と直接の衝突を避け、朝倉義景と手を組んで対抗しました。この連携は、信長の北進を一時は抑えることに成功したものの、朝倉・浅井連合軍は数的に劣っていました。

信長の包囲網を破るため、長政は武田信玄に支援を求めました。信玄は朝倉義景に援軍を送り、長政もこれに加わることで信長を圧倒しようとしましたが、戦局は思うようには進みませんでした。

特に、武田信玄の急死は長政にとって大きな打撃となり、その後の浅井家の運命を大きく左右しました。結局、信長による包囲網は完全には破れず、浅井家は次第に追い詰められていくことになります。

浅井長政の最期|何歳で死んだ?

1573年(天正元年)7月、信長による小谷城の包囲が始まります。そして8月27日、長政の父・久政が自害し、9月1日、長政も自害を選びます。享年29。彼の死により、浅井家は滅亡しました。

長政の死後、彼と彼の家族に対する信長の態度は、非常に厳しいものでした。信長は義景、久政、長政の頭蓋骨を宴会の見世物として披露し、その残虐さは後世まで語り継がれています。

しかし、長政の血脈は、彼の娘たちを通じて存続しました。長女・茶々は豊臣秀吉の側室となり、三女・お江は徳川秀忠の正室となり、彼女たちの血筋は日本の歴史に大きな足跡を残しています。

浅井長政の生涯は、戦国時代の激動を象徴するものでした。彼の果敢な挑戦、苦悩と決断、そして悲劇的な終焉は、後世に多大な影響を与え、戦国時代の人間模様を深く色づけています。

浅井長政の逸話・エピソードまとめ

浅井長政は、戦国時代の波乱に満ちた世界で、義理堅く、家族を深く愛する人物として知られています。特に、彼の人間関係に関するエピソードは多くの人々に知られ、語り継がれています。

義理堅さと優しさ

長政は六角家の家臣の娘を無理やり正室に迎えさせられましたが、この結婚に不満を持ち、六角家を戦で破り離婚しました。

彼は強要された結婚にも関わらず、妻に一切手を出さずに送り返したと言われています。これは、彼の義理堅い性格と優しさを示すエピソードとして語り継がれています。

お市との仲の良さ

お市の方との結婚は政略結婚でしたが、長政とお市の夫婦仲は非常に良好だったと言われています。

信長との同盟が破棄されても夫婦関係を続けたこと、そして危機的な状況でお市が信長へ「陣中見舞い」として小豆の入った袋を送ったエピソードは、二人の深い絆を物語っています。

浅井長政の子孫

浅井長政の息子たちは運命の荒波に飲み込まれました。万福丸は処刑され、次男の万寿丸は出家させられました。長政の血筋は女性を通じてのみ受け継がれました。

浅井三姉妹は美しいと評判で、茶々は豊臣秀吉の側室となり、初は京極高次に、江は徳川秀忠にそれぞれ嫁ぎました。この三姉妹の運命は、時代の厳しさと共に、長政の血筋の不屈の精神を伝えています。

浅井長政と関わりのある場所まとめ

戦国時代の武将「浅井長政」と関わりのある場所を、その場所の特徴とともにご紹介します。

  • 小谷城(おだにじょう) – 滋賀県長浜市:浅井長政の本拠地で、琵琶湖北部の山上に位置しています。急峻な山を利用した難攻不落の城として知られ、彼の政治の中心地でした。
  • 安土城(あづちじょう) – 滋賀県近江八幡市:織田信長が築城した城で、浅井長政も訪れたとされています。信長との同盟関係を深めるための政治的な交流の場ともなりました。
  • 金ヶ崎城(かねがさきじょう) – 滋賀県長浜市:金ヶ崎の退き口の戦いが行われた場所で、浅井長政が織田信長に対して抗戦した重要な舞台です。
  • 姉川(あねがわ) – 滋賀県長浜市:姉川の戦いの舞台となった川で、浅井長政が朝倉義景と連携して織田信長に抗戦した場所です。
  • 虎御前山(とらごぜんやま):1570年に浅井・朝倉軍が織田軍に対して攻撃を仕掛けた場所。虎御前山砦の戦いは、信長と長政の確執のひとつです。
  • 横山城(よこやまじょう) – 滋賀県長浜市:姉川の戦いの際に織田信長が使用した城で、小谷城を攻略するための前線基地となりました。

これらの場所は、浅井長政の生涯と深く関わり、彼の運命を形作る重要な舞台となった場所です。

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